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2021.09.30

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近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ 草津宿

近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ はじめに

住所:滋賀県草津市草津

交通:JR東海道本線琵琶湖線草津駅(次宿迄の里程:3里半6町)

町並南北7町15間半 東西4町38間・人口2351人(宿駅大概帳による)

宿場の規模(軒):家数586・本陣2・脇本陣2・旅籠72・問屋場1

 

草津宿は、東海道と中山道が合流する唯一の宿場で、宿駅の機能は信長や秀吉の時代にも見られました。文献上で一番早く草津の名が現れるのは、鎌倉時代の時宗開祖一遍の「一遍上人絵伝」に「一遍が東国巡歴ののち尾張美濃を経て京都に向かう途中、草津に於いて夜中、にわかに雷にあい……」とある部分と云われています。津は港湾を意味し、草津が古来から東山道と草津川の交差する地に設けられたのは、草津川にも琵琶湖への舟運が利用された時期があったのかもしれません。

ばったん床几が残る町並

東海道十三渡しに数えられた川幅13間の草津川を越えるには橋銭が徴収されました。一方、公用の通行や参勤交代の行列等の場合は仮橋が架けられたようです。草津川は、しばしば氾濫して草津宿に大きな被害を及ぼしました。1739(元文元)年には草津川床が益々高くなり天井川化が進んで行きました。東海道の近江5宿の中で最も短いL字型をした町並は、役家を多く確保し、宿場の機能を全て盛り込む為に、間口5~6間に抑えられ奥行きの深い家が建ち並んでいた、江戸から数えて52番目の宿は、商店街化していますが、草津宿本陣等の建物、多くの道標や商品の陳列台ともなった昔の折畳み式長椅子「ばったん床几」が、所々に残り江戸時代の面影を今に伝えている町並です。また訪問した時には、草津川跡地整備工事が進んでいました。東海道や中山道の渡し場跡・マンボ(トンネル)・道標等草津宿に残る街道遺産がどうなるか、多くの街道歩きの人達が見守っています。

(草津川跡地の整備工事は平成29年に完了し、草津川跡地公園として市民の憩いの場に生まれ変わっています)

草津宿:「うばもちや」の跡地に残る矢倉道標

広重の浮世絵は、草津宿と云えば街道菓子として全国的に有名な「姥が餅」で知られます。姥が餅をかつて食べられた茶店は、矢倉立場(休憩所)にあり船で大津の石場へ行く為の矢橋の渡しに繋がる分岐点として多くの旅人で賑わっていたようです。今は跡地が瓢泉堂という瓢箪を商う会社になっており、矢橋への「矢倉道標」が残されています。広重は、矢倉立場の「うばもちや」を「名物立場」と題して描いています。街道には京を目指した5人の慌ただしい早駕籠や、草津方面へ4人の人足による年貢と思われる上納荷が担がれて行きます。姥が餅屋では旅人も馬子も駕籠かきも、姥が餅の一椀に旅の疲れを休め名物に舌鼓をうっています。右上には「矢倉道標」が見られます。交通の様子や、駕籠かきの動く様子と旅人が店先で一服している静の部分が対照的です。

【見所】

・本陣跡:本陣は、勅使や公家、大名や公用で旅する幕府役人等が休泊する為のものです(トップ画像)。また、この本陣に準じた宿が脇本陣で、本陣に支障がある時、既に先客がある時、泊まりきれない時等に使われました。1634(寛永11)年徳川家光上洛に際し、宿場の大名宿の亭主を、本陣職に任命したのを一つの契機に翌年の参勤交代制度化により一般化されました。草津宿には、一町目には田中七左衛門家、向かいの二町目には田中九蔵家の2軒の本陣がありました。七左衛門本陣は、副業が材木商で「木屋本陣」とも呼ばれたこともあり1305坪の敷地に、建坪468坪・部屋数39室の門構え玄関付で桟瓦葺き平屋妻入りの建物からなり、当時宿内において、ひときわ大きな間口と広大な甍は威容を誇っていたと思われます。

本陣:上段の間

吉良上野介・浅野内匠頭やシーボルト・土方歳三等が宿泊、皇女和宮等が休憩した本陣は、東海道ではほぼ完全に残っている本陣として、また現存する本陣として全国最大規模のものです。今は保存整備事業が施され草津宿のシンボルとして一般に公開されています。現存する建物は1635(寛永12)年開設された時からのものでなく、また今迄云われていた1718(享保3)年の草津宿大火の後に膳所藩主別邸瓦ケ浜御殿を拝領し再建したものでもないことも確認されています。発掘調査等から18世紀末以降に新たに再建されたものであると云われています。明治以降の本陣廃止と共に、公共性を有する郡役所や公民館として利用されていました。昭和24年に国の史跡に指定され、今も多くの人を江戸時代の世界へと誘っています。

一方、1853(嘉永6)年に篤姫が宿泊した九蔵本陣は、1315坪の敷地に門構え玄関付で建坪288坪・部屋数41室と威容を誇る建物でしたが、1877(明治10)年跡地に草津小学校の前身の知新学校が建てられ、今は「草津宿本陣田中九蔵家跡」のパネルが歩道上に埋め込まれています。

脇本陣跡のベーカリーと茶舗

・道標:主な街迄の距離や方向等を示す石柱等で造られた今の道路標識です。

「常夜燈道標」1816(文化13)年に日野の豪商の寄進で、草津宿東口(江戸側)の草津川堤上に建てられ、上に珍しい木製の火袋が載り「右 金勝寺志がらき道 左 東海道いせみち」と刻まれています。高さ3.9mで、今は県道116号線の草津川を渡った南側の横町に移されています。

東海道の常夜燈道標

「追分道標の常夜燈」1816(文化13)年に諸国定飛脚問屋の寄進により、東海道と中山道の分岐点の追分に建てられ、上に銅製の火袋が載り「右 東海道いせ道 左 中仙道美のぢ」と刻まれています。高さ4.5mで、草津川のトンネルを本陣に抜けた所にあります。

追分道標の常夜燈

「矢倉道標」立木神社を過ぎ、矢倉に入った右側に、かって「うばがもちや」があった古い建物の前に、ひっそりと道標が立っています。

「右やばせ道 右是より十五丁大津へ船渡し」と刻まれた石造道標は、1798(寛政10)年に建てられました。広重が東海道五十三次に描いた草津宿の風景です。ここから右へ入り、「矢橋道」と呼ばれた道を約3㎞行くと、琵琶湖畔の矢橋湊の船着場、湖上を経て大津石場湊への渡し船がありました。近道でもあり、多くの旅人が利用しました。矢橋湊は、近江八景の一つ「矢橋帰帆」として有名で、現在の矢橋湊付近は、人工島の矢橋帰帆島が建設され風景が大きく変わっています。今は、1846(弘化3)年に渡し船頭仲間により建造された、上部に火袋を持つ常夜燈と、発掘された船着場の石垣が見られ、周辺は公園として整備されています。

矢橋の常夜燈

・政所跡:太田家は太田道灌の末裔で、徳川幕府から、幕府の公用旅行者や大名等がその宿場を利用する際に必要な馬や人足を用意し次の宿場迄荷物を運ぶ人馬の継立業務や、幕府公用の書状や荷物を次の宿場迄届ける継飛脚業務を行う、宿場で最も重要な施設の問屋場を預り、東海道には3ケ所しかなかった荷物の重量検査を行う貫目改所も預り、不審物の有無を密かに監視する隠し目付も務めていた名家です。太田酒造㈱に政所跡の看板があります。

政所跡(太田酒造)

・その他:

「草津宿街道交流館」東海道や中山道の資料や、体験コーナーや宿場模型等色々楽しめます。

草津宿街道交流館

「姥ケ餅屋」姥が餅の起源は諸説あります。伊勢参宮名所図会には、この地の領主六角義賢の末裔が織田信長に滅ぼされた時,遺児を助け出した乳母が、三歳になる遺児を養育する為に餅を作って売ったと書かれています。「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち」は、乳房の形をした可愛らしい小さなあんころ餅で、(家康も芭蕉も食べた姥が餅 広重も蕪村も食べた姥が餅)と詠まれ、東海道では安倍川餅と並び称されました。戦後に復活した「うばがもちや本店」は、国道1号線沿いにあり「宿場茶屋」では、うばがもちが付いてくる本陣蕎麦が食べられます。

姥ヶ餅屋本店

「美味しいお酒」道灌・天井川等があります。

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