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2021.06.03
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近江歴史回廊の旅 中山道~柏原宿から草津宿を訪ねて~ はじめに
近江の地は古くから交通の要衝で、東国から大和や京の都に入るには必ず近江を通ります。江戸時代近江にあった街道や宿場は、東海道5宿と中山道8宿、それ以外にも日本海を結ぶ北国街道4宿・北国海道7宿・塩津海道・鯖街道や、北国脇往還3宿・御代参街道4宿・八風街道・朝鮮人街道等がありました。宿があることで、そこに人と情報が集まり、今どの地で何が必要なのかそれが直ぐ判り、そこに近江商人が活躍し文化が栄え、旧街道が育んだ地域の力が今の滋賀の豊かさに繋がっています。
今回の旅は、歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」「木曽街道六十九次」に描かれた宿の風景と現在の町の光景を比べながら、美濃国境の寝物語の里から東海道との合流点草津追分迄の8宿を訪ねて、先人達の足跡を偲びます。
中山道とは
古代日本の中央政府は、飛鳥時代から平安時代前期にかけて道路を計画的に整備し、地方6~12m、京の都周辺24~42mの幅の道路があったと言われます。律令制下に制定された行政区画「五畿七道」は官道とも言い、京都周辺を畿内(畿とは首都の意味)・周辺5ケ国を五畿、七道とは東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道を指します。1885(明治18)年以降すたれ今は地方名や新幹線・自動車道・今後想定される地震発生帯の名称等に名残りが見られます。
1600(慶長5)年9月、関ヶ原の戦いで天下を掌握した徳川家康は、今迄の京都大坂中心に整備されていた交通体系を、江戸中心に変革することに着手し、翌年より7年間で東海道・中仙道・日光道中・甲州道中・奥州道中の五街道を整備し政治や軍事機能が発揮出来る体制にしました。
東海道は1601(慶長6)年に最も重要な幹線道路として、公用文書の逓送及び人の通行を円滑に行う為の制度「宿駅伝馬制」を導入し、街道上のポイントになる地点に宿駅を設け、江戸日本橋から京の三条大橋迄の53宿を結ぶ全長126里(約500㎞)の街道とし、中仙道はバイパス的な位置づけで翌1602(慶長7)年この制度を導入し宿駅の整備がされました。両街道とも当初は大坂を睨む為の軍用道路として、1635(寛永12)年に徳川家光が制定した参勤交代の道として情報が行き交い、大江戸とともに発展し近世を象徴する街道にと変貌しました。
中山道(当初「中仙道」と言われ1716(享保元)年「中山道」に改められました)は、江戸日本橋から武蔵・上野・信濃・美濃・近江を経由して京の三条大橋迄の69宿を結ぶ、全長135里34町余(約534㎞)の街道で、道筋は古道の東山道にほぼ沿っています。東海道より長い道程で木曽路をはじめ峠道が多く人馬の往来が困難な為、参勤交代の大名は、東海道を使用した154家に比べ加賀百万石前田家(二千人にも達する大行列で、江戸時代を通じて188回)を筆頭に34家と少なかったと言われます。しかし、大河がなく氾濫等による渋滞が少なく、また、東海道にある「今切関所」「薩埵峠」は嫁入りには縁起が悪いとされ、二代将軍秀忠の娘和子が後水尾天皇に入内したのを初め、九代将軍家重や十代将軍家治が正室を京から迎えた時、皇女和宮が十四代将軍徳川家茂に降嫁した時(行列は50㎞、警護や人足を含めると総勢3万人以上)、大坂や二条城番、1646(正保3)年より始まった日光例幣使等が片道を利用し、将軍に献上する茶壺道中、浪士組(後の新撰組)の上洛等、庶民から外交使節迄が旅する街道でもありました。
草津宿 本陣