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2021.07.01

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近江歴史回廊の旅 中山道~柏原宿から草津宿を訪ねて~ 鳥居本宿

近江歴史回廊の旅 中山道~柏原宿から草津宿を訪ねて~ はじめに

住所:彦根市鳥居本町

交通:近江鉄道鳥居本駅(次宿迄の里程:1里18町)

宿高115石・町並10町・人口1448人(宿村大概帳による)

宿場の規模(軒):家数293・本陣1・脇本陣2・旅籠35

 

鳥居本宿は、三つの赤い名産「赤玉(赤玉神教丸)・合羽(柿渋で赤く染まった油紙の雨合羽)・すいか(鳥居本すいか)」があり、このうち赤玉は今も健在な、江戸日本橋から数えて64番目の宿駅です。「多賀社の鳥居、此駅にありしより名づくる」と木曽路名所図会には書かれていますが、日撫神社の鳥居があったという説もあります。民家の町並は、松並木や袖塀に格子構えの家や看板等昔のままの姿が残り、中山道の面影に胸が弾みます(トップ画像)。宿場外れ下矢倉町のS宅にはかつて道標があり、この地が北国街道(鳥居本~米原~長浜~木之本~塩津~越前今庄)との分岐点です。また南側の彦根鳥居本局近くには朝鮮人街道(鳥居本~彦根~能登川~安土~八幡~野洲)との分岐点があり、交通の要衝として栄えました。

鳥居本宿:磨(摺)針峠から琵琶湖を望む

広重の浮世絵は、鳥居本宿と番場宿の間にある磨(摺)針峠から鳥居本のある琵琶湖側を描いています。左手の建物は大名行列も必ず休息した茶屋の「望湖堂」で、彦根藩が造ったと言われています。右下は「臨湖堂」で西方に琵琶湖の素晴らしい景色が広がり中山道随一の名勝と言われました。旅人は茶屋で景色を楽しみ「磨針餅」が供されていました。十辺舎一九の続膝栗毛の中では、この餅を「さとう餅」と言っています。木曽路名所図会には「此嶺の茶店より見下せば眼下に磯崎・筑摩の祠・朝妻の里・長浜、遙か向こうを見れば竹生嶋・沖嶋・多景嶋が見え、北には小谷・賤ヶ岳が見え、湖水洋々たる中に行き交う船見へて風色の美観なり」とあります。手前の内湖は干拓されたものの今も琵琶湖を望むことが出来ます。

朝鮮人街道道標

【見所】

・磨(摺)針峠:修行中の弘法大師がこの峠にさしかかった時、白髪の老婆が石の斧を磨くのに出会い、聞くと一本きりの大切な針を折ってしまったので、斧をこうして磨いて針にすると言います。その時ハッと悟った大師は自分の修行の未熟さを恥じ修行に励んだと言われます。その後、再びこの峠を訪れた大師は明神に栃餅を供え杉の若木を植え「道はなお学ぶることの 難からむ 斧を針とせし人もこそあれ」の一首を詠んだと伝えられ、磨(摺)針峠と呼ばれるようになりました。峠の傍らの望湖堂は本陣を思わせる大きな構えの建物で大いに栄えましたが、平成3年の火災で焼失しました。

・赤玉神教丸有川家:多賀大社の神の教えにより作られたと伝えられ、1658(万治元)年以来の記録が保存されています。店舗販売が中心で道中土産として「腹痛に効き、直径3㎜くらいの丸薬を一回、十四粒飲む」と木曽名所図会に紹介されています。建物は三百年以上の歴史があり江戸時代の大店舗の姿を良好に留めており国の重要文化財に指定されています。

赤玉神教丸有川家

・合羽所:1720(享保5)年、馬場矢五郎が創業したことに始まる鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向かう旅人が雨具として多く買い求め1804~30(文化文政年間)年には15軒の合羽所がありました。1832(天保3)年創業の木綿屋は鳥居本宿の一番北に位置する合羽屋で江戸や伊勢方面に販路を持ち、大名家や寺院や商家を得意先として、大八車等に覆いかぶせるシート状の合羽を主に製造し、合羽に刷り込んだ様々な型紙が当家に現存します。

合羽所:松屋と木綿屋

・本陣跡:寺村家は、観音寺城六角氏の配下で六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を勤め、佐和山城落城後、小野宿は廃止され、1603(慶長8)年鳥居本に宿場が移り鳥居本宿本陣役となりました。本陣屋敷は広い屋敷でしたが、明治になり大名の宿舎の部分は売り払われ住居部分が昭和10年頃ヴォーリス設計の洋館に建て直され、本陣の門が倉庫に転用され現存しています。

鳥居本宿本陣跡と倉庫に転用された門

 

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