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2023.09.28

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第17回 AKINDO塾 レポート

東京滋賀県人会では、滋賀県に所縁のある人々や会員同士の人脈形成、ネットワークの構築、知識の向上を支援する目的で、2016年秋以降『AKINDO塾』を定期的に開催しています。

第17回は、7月31日(月) ここ滋賀2階「近江牛もりしま 寛閑観」にて、講師に熊倉 功夫 氏【MIHO MUSEUM 館長】をお迎えし開催いたしました。

演題を「近江の茶の湯-歴史と茶人-」として、日本の喫茶文化発祥の地 近江と、小堀遠州や佐々木道誉、井伊直弼など、歴史を彩った近江ゆかりの茶人について、お話しいただきました。

講演要旨は以下の通りです。

熊倉 功夫 氏

近江の茶の湯-歴史と茶人-

MIHO MUSEUM 館長 熊倉 功夫

ミホ ミュージアムの紹介。
甲賀市信楽町の山中にあり、「桃源郷」をイメージして造られている。パリのルーブル美術館 ガラスのピラミッドを設計したI.M.ペイ氏による建築設計。ギリシア、ローマ、エジプト、中近東、ガンダーラ、中国、日本など幅広い地域と時代に渡る優品が展示されている。ぜひ、訪れていただきたい。

茶の湯は、日本の生活文化の礎。数寄屋というのも茶室から始まった。皮付きの丸太をそのまま使ったのも茶室が最初だ。日本庭園は深山幽谷の雰囲気を醸し出すことを意図しており、400年前から、茶の湯は、「市中の山居」を自らの生活の場にしつらえることを目指していた。茶の湯で出される懐石料理は、当初、本膳料理として、汁物8種、料理20種ぐらい出されることもあったが、その後、これはある意味で料理の堕落であるとして、革命が起こり、一汁三菜の食べ切れる料理に戻った。確かに、昔は宴会の際、食べ切れないほどの料理が出て、後で折り詰めにして、お土産として持ち帰る風習があった。今の茶の湯は、食べ切れる量を作り、すぐに出して、おいしくいただくことが基本になっている。

日本の美術工芸と茶の湯との関係は深い。茶碗については、秀吉による朝鮮出兵まで、日本では焼きものに釉薬で絵や文様を描くという習慣はなく、韓国の技術が入って来たおかげで、17世紀に鍋島など世界レベルの色絵の陶磁器が作られることとなった。掛け軸も茶の湯との関係が深く、芭蕉の俳諧や連歌もすべて茶の湯と繋がっている。わび、さびは、正に茶の湯の世界である。

茶の歴史は、780年頃、唐の陸羽が「茶経」で、茶について、その歴史や飲み方についても記している。日本の確実な史料として最初にあらわれるのは「日本後紀」で、弘仁6年(815年)近江の琵琶湖西岸の唐崎に嵯峨天皇が行幸したとき、崇福寺大僧都永忠が茶を煎じて差し上げたとされている。嵯峨天皇は中国が好きで、和歌は詠まないで漢詩を詠んだ。牛乳を飲み、お茶にも親しんだ。しかし、その後国風文化が興り、お茶も廃れていった。これには、当時のお茶がプーアール茶のような、ちょっとかび臭いものだったことも影響しているかもしれない。その約300年後、鎌倉時代に臨済宗の祖栄西が「喫茶養生記」を著し、茶を蒸して乾燥させ、粉末にして飲む抹茶が健康に良いとした。その後、茶は大いに広まり、「沙石集」では、ある僧が牛飼いに茶の効用を尋ねられ、眠気を追い、消化を助け、性欲を抑えると答えたところ、牛飼いは、くたびれて帰ってきて眠るのが楽しみなのに眠れない、食べ物が少ないのに消化が良くては、腹が減る、不能になっては女性が寄り付かず、洗濯もしてもらえないという話が載っている。さらには、茶の産地を言い当てる勝負をした記録も残されている。

この闘茶とよばれる飲茶勝負を大々的にしたのが、近江の大名、佐々木道誉。滋賀県犬上郡甲良町勝楽寺に墓所がある。道誉は、婆娑羅大名として太平記に型破りな行動が記されている。あるとき、将軍が花見をすると聞き、自分も同じときに花見の宴を開き、ほとんどの芸人を自分のところに招いて、将軍の面目を潰したという。また、10人で抱えるような桜の大木の下に大きな花瓶の形を作り、巨大な満開の桜を立花に見立て、用意した大きな香炉に一斤もある名香を焚き上げ、一里四方にその香が拡がったという。このように、誰も考えないようなことをやってしまう型破りな人物だった。

長浜生まれの茶人小堀遠州のことも触れたいが、時間がないのが残念。利休とも織部とも違う「綺麗さび」という考え方を打ち出した人だ。

井伊直弼も近江の茶人として忘れてはならない。「一期一会」というのは、井伊直弼が作った言葉。一生に一度というつもりでお茶席に臨んだ。江戸に行く前に位牌を作って、覚悟を抱いて参勤交代に赴いた。1860年(安政7年)3月3日に桜田門外で亡くなった。

(質問)宋代の青茶は、今のお茶と同じでしょうか?

(答え)中国の宋代では、一般に蒸した茶葉を杵と臼で搗き、これを固めたものを焙って乾して貯蔵していた。これを団茶といい、今のお茶とは異なる。

(文責 塚本 弘)

 

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