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2023.08.10

  • # 文化・景観
  • # 寄稿

投稿コーナー:牧野博士ゆかりの南天の木の物語 ー『故郷 伊吹山麓』と『柴又 帝釈天』を繋ぐー

関東圏の滋賀県人会の会員の皆さまをはじめ、広く滋賀に所縁のある方々より近況報告、趣味、旅行、日本社会や世界への提言、随想など、バラエティー豊かな投稿記事を募集し、「投稿コーナー」として東京県人会のHP「いま滋賀」に掲載します。
今回は、当会会員 的場 昭光 様からのご寄稿です。


牧野博士ゆかりの南天の木の物語 ―『故郷 伊吹山麓』と『柴又 帝釈天』を繋ぐ― 

米原市(旧伊吹町)出身 世田谷区在住
的場 昭光

トップ画像:帝釈天 題経寺の南天の床柱

伊吹山

【1】はじめに

本日は、NHKの朝ドラ ”らんまん” の主人公のモデル牧野富太郎博士ゆかりの伊吹山麓と、寅さんで有名な柴又 帝釈天 題経寺をつなぐ南天の木について紹介させていただきます。

私は現在 世田谷区在住で、高校卒業後に故郷の米原市(旧伊吹町)春照(スイジョウ)を離れ、すでに五十年近く経ちました。2020年には15年以上の海外駐在も含む40年間のサラリーマン生活を終え、以降、徐々に故郷について考える機会も増える中、2022年9月に、故郷で “ 牧野富太郎の生涯 “ と伊吹山というテーマで練馬区立牧野記念庭園の田中純子学芸員を招き講座が開催されたことを知りました。

さらに、2023年4月から始まるNHKの朝ドラの主人公のモデルが牧野博士であることも知り、そのことをきっかけに、地元に居た頃は全く興味もなくスルーしていました地元に伝わる “ 牧野博士は植物採集で度々伊吹山を訪れていた “  “ 春照にあった南天の木が柴又にある “ という話を思い出し、個人的に非常に興味を持ち始めました。

その後、まずは、地元の皆さんに南天の木の話について確認することから始めました。しかし、いずれの情報も断片的で、その内容も明確な裏付けがなく、好奇心もあり自分自身で調査し、せっかくなら流れがわかる記録として残しておき、地元の皆さんにも紹介しておきたいと思うようになりました。

調査対象をまずは地元、柴又帝釈天題経寺、練馬区立牧野記念庭園、国会図書館とし、夫々、飛び込みで電話をしてアポイントを取ることから始めました。サラリーマン新人時代に、会社年鑑を見て、手当たり次第に電話をかけまくって新規開拓していたころに鍛えられたスキルが思いがけない形で役立つことになりました。

調査結果は、本年1月に資料、更に、拙いレベルですが動画としてまとめて地元に紹介させていただきました。これが地元の中日新聞 彦根支局の目に留まり、本年4月に中日新聞愛知版、滋賀版、さらに、東京新聞に記事として紹介していただきました。

 

【2】牧野富太郎博士について

牧野記念庭園ホームページより

朝ドラを視聴されている方はご存じだと思いますが、まず、牧野博士について簡単に触れておきます。

1862年に高知県佐川の地元では大きな造り酒屋に生まれ、1957年に享年96歳で亡くなりました。学歴は、65歳の時に東京大学の理学博士の学位を取得しますが、当時の牧野少年の学業のレベルがあまりに高すぎて、佐川尋常小学校を中退してしまいました。このことは後々、いろんな局面で障害になりますが、牧野博士は全く意に介さず、幼少のころに出会った植物の道を究め、日本の植物を網羅した植物図鑑に仕上げるという壮大な目標に向かってひたすら走り続けることになります。

22歳で東京大学理学部植物学教室に出入りを許され、77歳まで教鞭を取り、後に “ 日本の植物学の父 “ と言われ、” 文化勲章 “をも授賞する功績を残すことになります。しかし、小学校中退という学歴が影響し、教え子が教授、名誉教授になるなか、退官するまで講師として勤めることになります。幼くして生涯のライフワークに出会い、その目標に向かってひたむきに走り続けた道は決して平たんではありませんでしたが、非常に羨ましく思います。

さて、牧野博士は、日本中の植物を網羅し、分類のための標本を作成するわけですが、採集から標本作りまで一人で成し遂げることは不可能で、全国各地に自ら植物採集に赴いた際に講習会を開き、その方法を地元の植物愛好家に伝授することで、採集、標本作りのネットワークを広げていきました。私の故郷の伊吹山にも、19歳で初めて来山して以来、73歳まで八回来山しており、44歳の時にも植物講習会に招かれ来山しています。その際に宿泊したのが、今回のテーマの南天の木が庭に生えていた旧春照村の旧家、的場徹氏邸でした。因みに、牧野博士が日本全国で収集し個人で所有していた標本数は40万枚あり、命名植物は1,500種類というとてつもない成果を残しています。

話はそれますが、牧野博士の妻の壽衛(スエ)は彦根藩士、のちに陸軍省営繕部に勤務した小澤一政の娘であったのも親近感を覚える理由の一つです。牧野博士は、大きな造り酒屋の跡取りとして、お金の不自由なく育ってきたこともあり、お金には無頓着で、多額の私費をつぎ込んだりしたので、妻の壽衛もお金の工面には随分苦労したようです。

 

【3】牧野富太郎著『植物一日一題』:初版 1953

写真:1998年発刊 復刻版

さて、本題に戻します。調査を開始すると “ 植物一日一題 “ という随筆集の “ 日本で最大の南天材 “ という章に、前述の旧春照村の旧家、的場徹氏邸の南天の木について著述されていることがわかりました。以下がそのポイントです。因みに、以降の調査は、この著述内容の裏付け、不明点の解明に基軸を置いて進めることになります。

①1906年8月(明治39年)に牧野博士が植物講習会に招かれ、的場徹氏邸に宿泊した
②その際に、庭にあった軒先より高い南天の木を見て、日本一の大南天と大変驚いた。
③その後、その旧家の家屋修繕の際に倒れて枯木となった
④その枯木は、1923年9月1日(大正12年)の関東大震災に先立つこと数年前に、東京報知新聞社に持ち込まれた。当時これを800円(現在の価値で約200万円)で売却したいと唱えていたが、成金目当てにこんな値段を吹いたものであろうと著述しており、お怒りモードであったことが読み取れます。

牧野博士はその再会の際に写真を撮影していますが、1936年(昭和11年)4月刊行の牧野植物学全集の口絵に掲載されています。

⑤その後、枯木は朝日新聞社に持ち込まれましたが、それ以降の足取りが不明となってしまいます。

*練馬区立牧野記念庭園によると牧野博士の当時の日記には以下のような記述があるようです。

・1917年(大正6年)6月13日 報知新聞社代理部へ至り、的場徹氏ヨリ来たりし大南天ノ写真ヲ撮ル。二枚《カビネ》にて費用壱円九十銭也。
・1920年(大正9年)1月24日 東京朝日新聞社へ行き、原稿を渡し、帰途報知新聞社代理部へ立寄り。南天大木の事を尋ね、写真弐枚、預け来ル。

1917年(大正6年)から1920年(大正9年)の間に何があったのかは記されていませんが、少なくとも1920年(大正9年)には南天大木の行方がわからなくなっていたことが読み取れます。

*この時の写真は、1936年発行の『牧野植物学全集 植物分類研究下』の口絵に、後に発刊された植物一日一題の日本一の大南天の章と同じ文章と一緒に掲載されています。

*牧野博士はその後、帝釈天題経寺の床柱になったことを知らないまま亡くなっています。

上記情報を元に、地元、練馬区立牧野記念庭園、帝釈天題経寺、国会図書館で更に調査を進めていくと新たな事実が判明してきました。

 

【4】1994年刊 伊吹町史編纂委員会篇『伊吹町史』  

       伊吹町史 自然篇 P143 伊吹町内名木一覧より抜粋

地元の長老などから聞き取りをしてみると、伊吹町史に南天の木について記載があることがわかりました。残念ながら、私自身はすでに故郷を離れて40年近く経っており、その存在すら知りませんでした。それによると、大正12年の調査名木として『白南天、帝釈天題経寺書院床柱として現存(大正12年頃枯死)』と記載されており、大正2年の調査名木、白南天、帝釈天題経寺というキーワードを紐解くべく更に調査を進めました。

帝釈天題経寺書院床柱と記述された根拠は地元では見つかりませんでした。つい最近わかったことですが、この伊吹町史の編集顧問として父 的場和夫の名前があるのを見つけ、大変驚くと同時に、不思議な縁を感じております。

 

【5】1913年(大正2年)刊 滋賀県編纂『近江名木誌』

いくつかのキーワードをネット検索してみると “ 近江名木誌 “ がヒットし、早速、国会図書館に出向きました。その書籍を閲覧(のちに、ネットで原本を購入)してみると、枯木になる前の旧家的場徹氏邸の軒先を超える高さ5.4m の南天の木の写真が掲載されており、大変な驚きと謎が少しだけ解けた感動に心が躍り、図書館内で、思わずガッツポーズをしてしまいました。

 

【6】1936年(昭和11年)刊 牧野植物学全集 植物分類研究下巻

さらに、植物一日一題で紹介されている牧野植物学全集の口絵の写真を探すべく国会図書館に出向き、全7巻を閲覧し、植物分類研究下巻の巻(のちにネットで原本を購入)に掲載されているのを確認しました。枝先が何かで縛られ、先端まで写っていませんが、牧野博士の身長は160cmだったので、その高さは私が知る南天のイメージとは随分と異なり、牧野博士が日本一の大南天と驚いたのも頷けます。

 

【7】柴又 帝釈天 題経寺での調査

経頂の間の床柱

帝釈堂の壁面彫刻

大客殿の日本庭園

牧野博士が行方不明になったと植物一日一題に記述し、その後については知らないままであった南天の木がどのような経緯で、題経寺の床柱となったのかを調査すべく、須山寺務長にお話しを伺いました。

その結果、この南天をモチーフにした6円切手(郵政省 第三次動植物国宝図案切手シリーズ)が1962年2月に発行され、さらに、2月20日に開催された贈呈式に参列した元日本植物学会会長の東京大学小倉譲名誉教授(牧野博士の東京大学講師時代の教え子)が、牧野植物学全集の口絵の写真と南天の床柱を実際に見比べて、同一であることを確認し、同年8月発行の専門誌『植物研究雑誌』第37巻 第8号に寄稿していたことが判明しました。この事実は、伊吹山麓の南天の木と題経寺の床柱をつなぐ学術的なお墨付きが見つかったことになり、今回の調査における最大の収穫であると考えています。因みに、牧野博士は、1957年に亡くなっているので残念ながらこの事実は知らないままとなっています。

今回の調査で最大の疑問点であった、東京朝日新聞社に移った南天の枯木がどのような経緯で題経寺の床柱になったのかについては紐解くことができませんでした。

6円南天切手

小倉名誉教授の寄稿

 

【8】ご子孫の情報

  今回の調査を通じて的場徹氏の孫にあたるご子孫が数名東京在住であることが判明しました。そのうちのお一人のご自宅の庭に、軒先まで届く南天の木があり、これは的場徹氏邸の庭にあった枯木になる前の南天の木を分株? して東京に持ってきたものであると両親から聞いていたとのことでした。しかしながら、この南天の実は赤く、白南天と記載がある伊吹町史の記述とは実の色が異なります。これについては、伊吹町史が白南天とした根拠とした近江名木誌にも記述がなく、赤い実が正しい可能性が高いと思われますが、白南天説を明確に否定する根拠がないのも事実です。許されるならご子孫のご自宅の南天の木と題経寺の南天の床柱のDNA鑑定をやってみたいところですが実現していません。

さらに、ご子孫からの聞き取りでは、的場徹氏の奥方は非常に教育熱心で、牧野博士が宿泊された際に、子息の教育のためには田舎にいるより都会に出た方が良いとも云われたようで、これが東京に引っ越ししたきっかけの一つであり、そのために、多額の費用が必要になったようだと話されておりました。また、経緯、詳細は不明も奥方は、題経寺との接点があったとも聞いていたとのことですが、裏付けまでは確認できていません。このあたりの情報と南天の枯木が売りに出されていたこととの関係性の有無は確認できていません。

 

【9】今後の展開

 今回の調査を通じて、接点ができた的場徹氏のご子孫のご自宅の南天の分株を故郷に植樹し、記念碑建立ができたらと願いつつ、具体的な動きには至っていません。さらに、牧野博士のご子孫が練馬区立牧野記念庭園の学芸員をされていることも判明しましたので、牧野博士が生前案じておられた行く不明になった南天の枯木のその後の姿である題経寺の南天の床柱と世代を超えて劇的な再会をしていただき、同時に、的場徹氏のご子孫ともお会いいただけたらと願いつつ、実現できておりません。

 

【10】最後に

残念ながらNHKの朝ドラ “ らんまん “ に帝釈天の南天の床柱は登場しませんが、今回の調査をきっかけに明確になった故郷伊吹山麓と柴又帝釈天をつなぐ日本一の南天の床柱を是非ともご覧いただきたいと思います。これは、わざわざ枝毎に天井に穴を開けてでも原木の枝ぶりを活かそうとした当時の棟梁の拘りの他に類を見ない非常にすばらしい南天の床柱です。さらに、牧野博士が長年住まわれていた跡地である練馬区立牧野記念庭園(最寄り駅:大泉学園)も当時の牧野博士を実感できる展示物もあり、併せてご覧いただけたらと存じます。

最後になりますが、今回の調査でご協力いただいた皆さまに改めて感謝申し上げます。

 

【11】添付資料

動画QRコードと新聞記事(東京新聞 2023年4月21日夕刊 )

 

 

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