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2020.08.13

  • # 文化・景観
  • # 近江の神社・仏閣

千三百年つづく日本の終活の旅~滋賀の西国三十三所観音巡礼~ 第三二番 観音正寺

千三百年つづく日本の終活の旅~滋賀の西国三十三所観音巡礼~ はじめに

第三二番:繖山観音正寺

住所:近江八幡市安土町石寺2

交 通:JR琵琶湖線能登川駅下車近江鉄道バス八日市駅行きで11分、観音寺口下車徒歩50分、または安土駅からタクシーで約15分の表参道駐車場から徒歩15分

宗 派:単立寺院(天台系)

御本尊:千手千眼観世音菩薩

御詠歌:あなとうと みちびきたまえ かんのんじ とおきくにより はこぶあゆみを

御朱印

観音霊験記

琵琶湖の東に聳える、貴人にさしかざす衣蓋の様にふんわりとした美しい山容から名付けられた標高約433mの繖山の山頂近くに、ひっそりと佇んでいます。表参道に当たる石寺から登ると1200段もの石段が続き、西国巡礼屈指の難所と云われてきました。

繖山遠景

現在は、山頂近くの2ケ所の駐車場まで車で登れますが、寺迄は更に10~15分歩きます。苦労し登り切った所からは、天気の良い日には大津まで見渡せ、近江富士や、万葉集にも詠まれた蒲生野の長閑な田園の景色が広がり、優しいお顔の「観音さん」が待っていてくれます。古来より万事吉祥の縁結びの祈祷道場として知られます。また、どちらの参道にも、その長い道に、適当な間隔で『諺』を書いた立て札が33あり、読みながら登っていくと,いつの間にか本堂に辿り着く様に感じられます。「夫婦の円満は互いの働きを感謝し合う事から生まれる」「我が子は深い愛情で育てられながら親を養う事は忘れがちである」等、的を射た言葉に出会うと、つい立ち止まってしまいます。

登山口

伝承によれば、605(推古13)年に聖徳太子がこの地を訪れた時、繖山の頂上に修験行場を見つけられ、その洞窟に千手観音像を祀ったことに始まると云われます。その地が現在、裏参道の途中にある奥の院らしいと云われます。

諺の石碑

『観音霊験記』では、人魚の願いにより創建されたとの伝説が伝わります。太子がこの地を訪ねた時、近くを流れる愛知川の畔で人魚と出会い、人魚は『私は前世で漁師をしており、殺生を生業としていた為、この様な姿になりました。繖山にお寺を建て、私を成仏させて下さい』と懇願します。そこで太子は人魚の願いを聞き入れ、自ら千手観音像を刻んで祀り、堂塔を建立しました。すると人魚は天界に生まれ変わったそうです。寺にはそのミイラと称するものが伝えられていましたが、1993(平成5)年に焼失しました。

本堂内部

また、繖山には鎌倉時代以来、近江国南半分を支配する佐々木六角氏の居城である観音寺城がありました。寺は庇護を得て大いに栄え、寺伝によると最盛期72坊3院を数えました。1568(永禄11)年、観音寺城の戦いで織田信長に攻められ、敗北した六角義賢・義治親子が観音寺城を捨て甲賀郡に退却した時の混乱で焼失したと云われます。現在の観音正寺の境内は観音寺城跡山上主要部の中央にあり所々に石垣が残っています。

境内の石垣

1597(慶長2)年には再び山上に伽藍を建てることとなり観音堂を完成させ再興しました。江戸時代に入り霊場として栄えましたが、1880(明治13)年に観音堂を建て替えることになり、甲良町念称寺に本堂として移築、1882(明治15)年に彦根城の欅御殿を本堂として貰い受けて境内に移築しました。しかし1993(平成5)年本堂が失火で焼失し、2004(平成16)年に再建されました。現在のご本尊は、仏教の母国インドより特別に輸入した23トンの白檀で彫像されています。本堂内は白檀の香りがたちこめ、円形の光背も含めた約6mの柔和な微笑みの御本尊が印象的でした。

白檀の香木

・文化財:
【重要文化財建造物】未指定

・立ち寄り所:観音正寺の霊水

【国史跡】観音寺城跡

観音寺城跡の石垣

【国特別史跡】安土城跡

【重要文化財建造物】摠見寺三重塔・仁王門、桑実寺本堂、奥石神社本殿、浄厳院本堂・楼門、旧宮地家住宅(安土)

安土城天守信長の館、プティキャナル(レイクビューレストラン)、御菓子司万吾塿(まけずの鍔という名の最中)

境内からの蒲生野の眺望

・近江6札所限定の浄土の鳥(滋賀県内の札所でしか頂けない、一つ一つ手作りの土鈴を集めてみませんか)

共命之鳥:頭を2つ持ち、共に生きる大切さを悟らせてくれる鳥

写真提供:(公社)びわこビジターズビューロー(繖山遠景、観音寺城跡の石垣)

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