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2020.10.08

  • # 文化・景観
  • # ヴォーリズ建築

近江ヴォーリズ建築の旅―青い目の近江商人ウィリアム・メレル・ヴォーリズと一柳満喜子 はじめに

1905(明治40)年、24歳のアメリカ青年が来日、英語教師として赴任する為、2月2日午後3時に厳冬の田舎町、八幡駅(現:JR近江八幡駅)に降り立ちました。列車を降りて、彼は唖然と立ち尽くしてしまいました。
駅周辺は旅館や民家数軒があるばかりで、殆んど田畑ばかりでした。きっと余りの淋しさに母国で描いた理想も決意も信念も一瞬に音を立てて崩れて行く思いがしたことでしょう。「ホームシック、寒い、頭痛がする、淋しい、しかももうここに来てしまった」と、この日の日記に書かれています。彼が赴任したのは、滋賀県立商業学校(現:県立八幡商業高等学校)で、彼は生徒の中に積極的に溶け込む努力を惜しみませんでした。放課後は生徒と散策やテニスをし、更に夜は下宿でバイブルクラスを開催していました。が、1907(明治42)年に解雇されます。しかし、彼は八幡の地を離れようとしませんでした。

近江八幡市のヴォーリズ像

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ

日本と日本人を愛し、あらゆる困難を克服して近江に「神の国」の理想の社会を創るべく生涯を捧げた青年ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(以下:ヴォーリズ)は、建築家として全国に数々のヴォーリズ建築を作り、日本にメンソレータム(現:メンターム)をもたらし、近江療養院(現:ヴォーリズ記念病院)を開設する等、YMCA・病院・学校・図書館等を作り、地域社会に貢献しました。また開戦前夜に日本に帰化し、戦後は天皇制維持をアメリカに訴え日本の復興に貢献しました。近江兄弟社グループの礎は、彼を慕う人々や、伴侶となった一柳満喜子によって築かれました。また満喜子夫人は、夫を支え、保育施設、幼稚園から高等学校の創設や運営等、教育活動の分野を担いました。子爵令嬢が近江の土深き八幡で、ヴォーリズの妻として半生を暮らしました。

満喜子夫人像

ヴォーリズ建築とは

ヴォーリズは失業していた1908(明治41)年に京都YMCA会館の建設工事の代理監督に就き、ここで建設設計事務所を始めたと云われます。1910(明治43)年には支援者を求め欧米を巡り、米国人建築技師チェーピンを伴い八幡に戻り、まもなくヴォーリズ合名会社を設立しました。ヴォーリズ率いる建築事務所は、キリスト教の関係者と広く通じ、学校や教会建築をはじめ宣教師住宅を建て、米国の伝統的住宅スタイルを応用した数多くの住宅を設計し、日本住宅の洋風化に影響を与えました。また、広瀬恵三率いる大同生命ビルや邸宅、大丸心斎橋店や京都店、主婦の友社ビル、京都の矢尾政(現:東華菜館)等、小規模な住宅建築から大型の商業建築に至る迄、日本各地や東アジアに約1500件の膨大な建築物を手がけました。また近代的建築に欠かせない暖房、衛生設備を導入し、建築金物の輸入と自社での生産をも行いました。

ヴォーリズ学園

今回からは、ヴォーリズが滋賀県各地に建築し、今も地域の人々に愛される個性豊かなヴォーリズ建築を地域ごとにご紹介します。

近江兄弟社

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