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2024.05.09

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日本遺産 「京都と大津を繋ぐ希望の水 琵琶湖疏水」と、琵琶湖に入る水出て行く水の旅 はじめに

※この連載は、会報誌「滋賀縣人」198号(令和3年9月発行)掲載の記事「カメラで巡る琵琶湖・水の旅 日本遺産「京都と大津を繋ぐ希望の水 琵琶湖疏水」と、琵琶湖に入る水出て行く水の旅」を、ホームページでの掲載用に再編集したものです。

かつて京都と大阪を結ぶ京阪電車は、七条辺りから三条大橋迄、鴨川の東堤をのんびりと走っていました。春には桜並木を秋が深まると紅葉の合間を縫うように走る電車は、通学通勤の足でもありながら観光客の人気をも集めていました。1989(平成元)年、三条から出町柳迄を結ぶ鴨東線の開業に合わせ、七条から地下に潜って走るようになり、鴨川にその車両を映す京阪電車は姿を消しました。また、この区間の疏水運河も暗渠化され、今では京阪電車と疎水のあった空間が広い川端通りになり、鴨川堤を緑色の電車が走っているのが見られなくなりました。鴨川沿いの疏水運河は見られなくなりましたが、東山山麓の岡崎から京都市京セラ美術館や国立近代美術館、そして平安神宮の脇を通り、川端通りに達する迄の間では、疏水運河は琵琶湖の水を豊かに京都へ流している姿を今も見せています。

この疏水運河・琵琶湖疏水は、2018(平成30)年6月に日本遺産に認定されています。今回のカメラで巡る旅は、琵琶湖から流れ出る水に乗って滋賀を飛び出し、琵琶湖疏水と瀬田川から大阪湾への二つの流れを辿ることにしました。

疏水マップ

日本遺産・琵琶湖疏水のストーリー

賀茂川・高野川や保津川と云った水量の少ない河川だけしか持たない盆地の中に出来た京都市内は、今もその上水の殆どを東山の向こう側から、疏水を通って流れてくる琵琶湖の水に頼っています。京都の最重要なライフラインである疏水は、第三代京都府知事の北垣国道の下、工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業間もない田邊朔郎を迎え、欧米の測量術を学んだ島田道生が測量図を作成し、1885(明治18)年に当時の一大土木工事として着工され、1890(明治23)年に完成します。

京都は明治維新の東京奠都以来、その人口は激減し沈滞の極みにあり、これから脱却し、再び都市としての活気を取り戻すには産業を振興するしか途はありませんでした。しかし、産業を振興するには盆地京都の交通輸送の便は悪く水資源は乏し過ぎました。そこで構想されたのが、琵琶湖から水を引いて運河を開くことでした。直線距離にして10㎞も離れていない所にある我が国最大の琵琶湖の水を、途中の山にトンネルを掘って京都へ導き、その水路を舟運に利用して山越えの貨物輸送を容易にし、落差を利用して水車を回して産業用の動力を確保し、同時に飲料水及び農耕用の灌漑用水を得ると云う、多目的導水路を作る疏水計画でした。

大津運河

 この琵琶湖疏水計画は、地元の計画として進められ、巨額の費用も大半が、受益者負担金・東京奠都に際しての恩賜金等、京都で負担されました。多くの困難を乗り越え、日本で初めて、日本人のみの手によって、この大土木工事を成し遂げました。豊富な水は、水力発電・舟運・防火用水・庭園群・水道等に利用され、経済や産業や文化を発展させました。疏水が京都の「命の水」と云われることが実感できます。1891(明治24)年、蹴上の発電所で発電と送電が始まり、また1894(明治27)年、鴨川と夷川通りが交差する地点に閘門を造って水位を調整し、鴨川の東の岸を流れ、伏見の景勝町で高瀬川と合流して宇治川に入ります。鴨川運河は、大津から伏見に至る琵琶湖疏水の本線20㎞余りが、起工式から、あしかけ10年を経て開通しました。

鴨東運河

 京都を再生と飛躍に導き、現在のまちの姿を形づくった琵琶湖疏水は、今も京都と大津を繋ぎ、まちとくらしを潤い続けています。遊覧船に乗り、疏水沿いを歩いて、京都に「命の水」を運び続ける琵琶湖疏水に触れられるのは、明治の偉業から生まれた京都と大津の知られざる魅力です。明治時代のこの壮大な事業が、時を超えて今に息づいていることを、感じることが出来るでしょう。また、「京都市三大事業」の一環として進められた第二疏水の建設は、1912(明治45)年に完成し、豊富となった水資源を利用して、蹴上浄水場から日本初の「急速ろ過」方式による水道水の供給が始まりました。

南禅寺水路閣

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