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2021.10.07
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近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ 大津宿
近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ はじめに
住所:滋賀県大津市京町
交通:京阪電車石山坂本線浜大津駅(次宿迄の里程:3里)
町並南北1里19間 東西16町51間・人口14892人(宿駅大概帳による)
宿場の規模(軒):家数3650・本陣2・脇本陣1・旅籠71・問屋場1
大津宿は、奈良時代から「古津」と呼ばれ、伊勢参宮名所図会では「大津の名は天智天皇の都よりいひはじめて、是を御津ともいへり」と紹介された交通の重要拠点でした。1586(天正14)年秀吉の時代に大津城が築かれ現在の市街地が造られ、関ヶ原の合戦後、城下町としての役割を終え、城は膳所に移されます。1602(慶長7)年大津陣屋が置かれ宿場として成立しました。現在の札の辻辺りを中心に、東海道と北国海道の分岐点にあたり、東海道の中で最大の人口を有し、宿場町と琵琶湖の物資が集散する港町を併せ持った宿場として大いに賑わいました。幕府の直轄領として代官が置かれた近江商人の町で陸上・湖上交通の要衝として栄え、江戸から数えて53番目の宿は、今も大津の中心市街地大津百町に、江戸時代末期から戦前迄に建てられた町屋が残っています。大名等の蔵屋敷や米問屋等の問屋街があった浜通りは、万孫と言う米問屋だった森本良蔵宅の白壁の古い建物等が散見されます。日用品の中町通りや近郊農村相手の商店街の京町通り(旧東海道)は、伝統的な古い建物は残っていませんが古い旅籠屋風の連子格子の家が宿場であった名残りを色濃く残しています。本陣・脇本陣・旅籠が軒を並べていた札の辻から逢坂の関に向かう八町筋は全く面影もなく跡や碑ばかりです。
大津宿:走井茶屋のあった月心寺
広重の浮世絵は、大津宿から逢坂峠を越えて、京都側へ下り始めた所に大谷町があり、ここに清らかな水が渾渾と湧き出る井戸があって「走井」と呼んでいました。日本画家橋本関雪の元別荘で今は月心寺になっている所です。この井戸は、古くは万葉の時代から和歌にも詠まれて広く知られていました。江戸時代の中頃になってこの井戸の傍らに「走井茶店」と称する茶店が建ち「走井餅」と名付けた餅を売り出しました。ここは立場茶屋でもあり、多くの旅人や人足達が湧水で渇きを癒したり餅を食べたりし休憩して行きました。広重は、大谷立場(休憩所)の走井を「走井茶店」と題して描いています。この絵の左が走井茶屋で、中には巡礼の2人連れが立っています。店の前で走り出るように水が湧き出ているのが走井です。その冷水を使って大きなたらいの中で魚を冷やしているのは魚の行商人です。店の前の街道に日よけを付けた牛が車を引いて行きます。1台は米俵を、後ろ2台は柴や薪を運んでいます。また、並んでいる他の店は、名産の大津絵や大津算盤や大津針(みすや針)等の土産物屋かも知れません。琵琶湖畔にあった大津宿は、舟で運ばれてくる北国及び湖周辺の諸産物の集散地で、これらの大半は牛車で東海道を通り京都迄運ばれていました。この地域では牛車は物資運搬の重要な手段でした。背景の黒い山は逢坂山で、広重は絵の構図を整える為に、琵琶湖を上に描き、逢坂山を此処まで移動させたものと思われ、牛車がこちら(大津)に来ていますが、右(京都)に坂を下るのが正しいと思われます。
【見所】
・瀬田の唐橋:民話「三上山のムカデ退治」や広重の近江八景「瀬田の夕照」に描かれ、宇治橋・山崎橋と並び「日本三名橋」と称され、「日本の道百選」や「日本の橋百選」に選ばれた橋は、東国から京に入る軍事交通の要衝でした。「唐橋を制する者は天下を制す」と云われ、7世紀後半の壬申の乱や、13世紀の承久の乱、14世紀の建武の戦い等、戦乱の舞台となり、橋は破壊と再建を繰り返してきました。1575(天正3)年織田信長が現在の位置に幅4間、長さ180間余りの新しい橋を建設しました。江戸時代の管理は譜代大名の膳所藩本多家が行い、1630(寛永7)年以降から数えると、昭和54年に造営された現在の橋は、20代目と云われ、緩やかな反りや旧橋の擬宝珠を付け昔の面影を偲ばせています。また、室町時代の連歌師の宗長の歌「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ勢田の長橋」は有名ですが、旅人はどのように選択していたのでしょうか。
瀬田の唐橋
・膳所城址公園:膳所城は、徳川家康が関ヶ原の戦いの翌年1601(慶長6)年に、当時大津城主の戸田一西に命じ築いたもので縄張りは築城の名手藤堂高虎です。築城に当たり関ヶ原の戦いで損傷した大津城改修の案も検討されましたが、背後の長等山から城内を見渡せる欠点があり、大津城を廃して、東海道と瀬田橋と湖上交通や、京都の東の守りを固める軍事上の要衝にある天下普請の城として、膳所城の築城となりました。琵琶湖に突き出した別名石鹿城と云われた水城で、4重4階の天守閣の水に映える姿は「瀬田の唐橋唐金擬宝珠、水に映るは膳所の城」と里謡にも謡われています。明治3年廃城となり、現在は膳所城址公園になっています。公園内では模擬門や僅かに残った石垣が見られます。また、城門の本丸大手門(重文)は膳所神社に、北大手門(重文)は篠津神社に、犬走り門は若宮八幡神社に、南大手門(重文)は鞭崎神社に、それぞれ移築され現存しています。
膳所城址公園の摸擬門
膳所神社
・義仲寺:源義仲(木曽義仲)を葬った塚のある所から名付けられました。国指定史跡になっています。松尾芭蕉が滞在し、1694(元禄7)年大坂で客死すると遺言により葬られたことでも知られています。境内には「行春をあふミの人とおしみける」等、芭蕉や弟子の句碑が多くあります。余談ですが私の好きな句は、1691(元禄4)年正月に、大津藩伝馬役の川井乙州に招かれ詠んだ句「比良三上 雪さしわたせ さぎの橋」・「かくれけり 師走の海の かいつぶり」です。
義仲寺
・石場の常夜燈:対岸の矢橋湊と石場湊間の渡し船の目印にと、1845(弘化2)年に大津・京都・大坂等の船仲間によって建てられました。高さ8.4mの常夜燈は、湖岸の埋め立てで2度移転しましたが、今はびわ湖ホールのある「なぎさのテラス」にあります。
石場の常夜燈
・大津城跡:1586(天正14)年浅野長政により築かれ、今の明日都浜大津の湖岸側一帯が本丸でした。関ヶ原の合戦で家康軍を勝利に導いた大津籠城戦は有名で、戦いが終わり、やがて天守は彦根城へと移築されました。大津港口の交差点近くには大津城跡碑があります。
大津城跡
・本陣跡:大津宿には、大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)と肥前屋九左衛門の2軒の本陣と、播磨屋市兵衛の脇本陣1軒が置かれていました。大塚本陣は3階の楼上から琵琶湖の眺めが絶景だったと云われますが、建物は現存せず明治天皇聖跡碑と案内板があります。他は場所が特定できず残念です。
本陣跡
・関蝉丸神社(下社):822(弘仁13)年に小野岑守が旅人を守る神を祀ったのに始まるとされて、平安中期の琵琶法師で歌人の蝉丸が逢坂山に住み、逢坂1丁目には上下二社があり葬られるようになりました。971(天禄2)年には綸旨により音曲芸能の神として信仰されるようになりました。境内にある「時雨灯籠」は国の重要文化財です。
関蝉丸神社下社
時雨燈籠
・逢坂の関:逢坂山に設けられた関所「逢坂関」は、平安時代「伊勢の鈴鹿関」「美濃の不破関」と共に三関と云われ、京の玄関口として知られ「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」と蝉丸も詠んだ地です。時代を遡ると天智天皇が「白村江の戦い」に敗れ、新羅・唐が、日本に攻めて来るかもしれないと各地に敵軍侵攻に備えた山城を多く築き、最後の砦を逢坂山とする為に、667(天智6)年に都を大津京に移されたと云われています。
逢坂の関跡
・その他:
「大津祭」10月の体育の日の前日が本祭りでその前日が宵宮の天孫神社の祭礼です。江戸中期迄に京都の祇園祭の山鉾を真似て創られた曳山13基が巡行します。特徴は曳山が三つ車で、からくり仕掛けを約25ケ所の所定の場所で所望(からくり仕掛けを披露)が行われます。
「大津祭曳山展示館」曳山が展示されビデオ映像等が見られます。
大津祭曳山展示館
「走り井餅」1764(明和元)年創始と云われ、走井の名水と近江の米でつきあげた餅は、旅人の空腹を補いエネルギー源となり、走井の水を使ったお茶で喉を潤し旅の疲れを癒しました。水の流れや水滴を表した独特な形の餅は、東海道の名物として今も知られています。「美味しいお酒」浅茅生・浪乃音・月の里等があります。
走り井の井戸
「大津算盤」算盤は欧州で原形が作られ中国に伝わり明の時代に長崎に伝来しました。1612(慶長17)年大津追分の片岡庄兵衛が、長崎に出向き明国の人から見本と使用方法を受け、日本人向けに工夫改良し大津算盤(上玉2つ下玉5つ)が誕生しました。以来、大津の片岡家は代々幕府御用達として名を馳せ家元として特権を認められました。昭和初期まで子孫が住んでいた大谷の街道筋にある建物の前には「大津算盤始祖の碑」が車石と一緒に置かれています。片岡家の他、玉作り名人小島庄兵衛、木屋安兵衛、昆布屋定治郎等の多くの職人が技を競い合い、追分・大谷辺りには江戸三百年間に亘って多くの製造業者や職人等が集結し「算盤と言えば大津、大津と言えば算盤」と全国の需要を独占する状態でした。しかし明治を迎え鉄道の敷設に伴い算盤業者の密集地帯が立ち退きにあい、更に国道1号線の整備や明治末には京津電車の敷設工事等で機械化を進める余裕もなく壊滅状態となりました。今は播州算盤(兵庫県小野市)が有名ですが、1580(天正8)年三木城落城に遭遇し、たまたま大津に難を避けた住人が、大津算盤の製法を持ち帰り興したと云う逸話があります。
大津算盤の始祖の碑
「大津絵」1624~44(寛永年間)逢坂山の麓の追分・大谷付近で町絵師が素朴な仏画を描いて旅人に売ったのが始まりと云われ、1600年代後半「大津絵の筆のはじめは何仏」と芭蕉が詠んだ頃が最盛期で「藤娘」「鬼の念仏」等、街道を往く旅人や庶民の身近な護符として愛されました。明治を迎え鉄道の旅となり次第に忘れられて行きましたが、愛好者も多く、今も大津絵の店が2軒あります。
大津絵の店
・追分の道標:大津市追分町にあり、この地は髭茶屋追分と呼ばれる場所で、東海道から京三條と、伏見宿を経て大坂に向かう街道が分岐する三叉路です。有名な道標で、短い方の道標には「蓮如上人・是より十町」と書かれ、長い方の道標は「みぎハ京みち・ひだりハふしみみち・栁緑花紅」と書かれています。これはレプリカで、当初の道標は県立安土考古博物館に保存されています。
髭茶屋追分
追分の道標
2014年9月訪問の時は2つの碑は撤去されていました。翌年5月に訪問した時は修復されてはいましたが痛々しく感じられました。事故にでもあったのでしょうか。右側の道を行くと旧東海道で、四ノ宮を通り旧三條通と呼ばれる道を進むと、御陵・日の岡・九条山を越え、蹴上・粟田口を経て三條大橋到着となります。
・京師:江戸日本橋から始まった約500㎞に及ぶ東海道五十三次の旅も、京の三條大橋で終着を迎えます。京を「京師」と表記するのは古来から使っている例で「みやこ」の意味です。 広重の浮世絵は、「京師」と題しこの京の玄関口三條大橋から、京の南を遠望した最終画です。木製の足杭の三條大橋の下には、鴨川の流れを青と乳白色で上手く描いています。背景は手前に東山と奥に茶色の比叡山が描かれています。山の中腹には清水寺と右下に八坂の塔が左端には知恩院が見えます。橋上には、右端は2人の行商人らしい旅人で一人は菅笠に手をかざしています。番傘をさした袴姿の武士、日傘を伴に持たせた女性、被衣を被った女性三人、欄干から鴨川を覗く菅笠の旅人、次に藁束を担いだ茶筅売りが渡っています。反対側からは、槍持ちを先頭に長棒を担ぐ人足や馬、少し離れて駕籠に乗る主人と家来の一行が描かれています。実際は、この方向には比叡山を見ることが出来ません。広重は印象深い景色を頭の中で描いたようです。また当時の三條大橋は既に石の杭に換えられていたことから、広重は実際には行っていないとも云われています。この橋は1590(天正18)年に秀吉が大改修した時の名入りの擬宝珠が残り木造の欄干と共に威容を誇っています。長さ57間2寸(約104m)巾4間1寸(約7m)、橋を渡ると「弥次さん喜多さん」の像が待っていて、私達の旅は終わりとなります。
京師:三條大橋
・東海道57次:一般的に言われる東海道53次の場合は、この髭茶屋追分から京都三條大橋へ向かう東海道を指します。東海道57次という場合は、髭茶屋追分から伏見宿・淀宿・枚方宿・守口宿を経て大坂(高麗橋)へ至る街道が東海道となります。1615(慶長20)年に大坂城を落城させた家康は、豊臣秀吉が築いた文禄堤(大坂城と伏見城の間の交通を円滑にする為に淀川沿いに堤と道路を兼ね備えた)を利用し、東海道を大坂迄延長し、伏見・淀・枚方・守口の4つの宿場を作り、大津宿から大坂(高麗橋)迄の東海道57次を成立させました。参勤交代の西国大名が入洛し朝廷に接触するのを防ぐ為に伏見を通る迂回経路としました。大津宿から伏見宿迄を伏見街道(大津街道)、伏見宿から大坂迄を大坂街道(京街道)とも呼ばれています。53次と57次の両方を正確に伝承したいと思います。