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近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ はじめに

公開日 : 2021.8.26
近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ はじめに

近江の地は古くから交通の要衝で、東国から大和や京の都に入るには必ず近江を通ります。江戸時代近江にあった街道や宿場は、東海道5宿と中山道8宿、それ以外にも日本海を結ぶ北国街道4宿・北国海道7宿・塩津海道・鯖街道や、北国脇往還3宿・御代参街道4宿・八風街道・朝鮮人街道等がありました。宿があることで、そこに人と情報が集まり、今どの地で何が必要なのかそれが直ぐ判り、そこに近江商人が活躍し文化が栄え、旧街道が育んだ地域の力が今の滋賀の豊かさに繋がっています。

前回までの記事では、美濃国から近江に入る中山道の旅をご紹介しました。(近江歴史回廊の旅 中山道~柏原宿から草津宿を訪ねて~ はじめに)。

今回からは一度近江への東の入口へ巻き戻り、あらためて伊勢国から東海道を辿り京へと至る旅をご案内します。

 

東海道とは

1600(慶長5)年、関ヶ原の戦いに勝った徳川家康は、天下統一の為に、今まで京都大坂中心に整備されていた交通体系を江戸中心に変革することに着手し、翌年より7年をかけ東海道・中仙道・日光道中・甲州道中・奥州道中の五街道を整備、政治や軍事機能が発揮出来る体制にしました。1601(慶長6)年には東海道に宿駅伝馬制度が敷かれました。この制度は、街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や荷物や通信物を無料で次の宿場まで送り継ぐ制度です。輸送の為に必要な人馬は、宿場が提供するというものです。輸送の範囲は原則として隣接する宿場までで、これを越えて運ぶことは禁止されていました。従って隣の宿場に着くと荷物を新しい馬に積み替えることになります。

東海道には江戸から京都までの間に53の宿場があり、江戸から京都まで運ぶ場合53回の次替えをすることになるため「53次」と呼ばれるようになりました。宿場は宿・宿駅とも呼ばれ街道の拠点となった所です。宿という名前は平安時代末期頃から使われだしましたが、江戸時代に宿駅伝馬制度が定められ、街道が整備されると共に発展した集落です。宿場には、文字通り旅人を宿屋に泊めたり休ませたりするという役割がありますが、最も重要な役割は、隣の宿場から運ばれてきた公用の荷物や通信物を次の宿場迄運ぶという業務です。その為、宿場は本陣・脇本陣・旅籠等の宿泊施設と、継ぎ送り業務を行う問屋場が中心となっています。当初は農村とさほど変わるものではなかった宿場は、交通量の増大や商品流通の活発化に伴い、商人・職人等定住する者が増え接客空間も持つ町屋が現れる等、都市的な様相を呈する様になってきました。

江戸時代の人口は2~3千万人の間で、その内訳は武士1・農民8・町人1の割合であったといわれています。このうち武士の旅行はほとんど参勤交代の随行や公務出張でした。一方、町人は商用で遠隔地に赴く他に、社寺参詣を繰り返し遊離や芝居見物で財を消費していました。大多数の人口を占める農民の場合、過酷な農作業からの一時的解放感を求め、伊勢参りとセットの京・大坂巡り、浅草観音参りを方便の江戸見物等、信仰に名を借りた物見遊山の旅をしました。当時の川柳に「信心といふは遊山の片身ごろ」とか「信心は半分うさの捨どころ」と詠まれ、信仰と娯楽が半分半分だというものの、実際は半分以上が旅心であったのでしょう。

東海道あれこれ

・東海道の概要:距離は江戸日本橋から京の三條大橋まで126里6町1間(約495.5㎞)、幅員は9m(山間部約4~7m)、設備は一里塚・並木道・路面整備・常夜燈・道標、宿の常備人馬数100人100疋。1649(慶安2)年設置の道中奉行は道中に関する全ての事務処理を担当しました。旅の所要日数は一般に徒歩男性で13~15日間(女性は+3~4日)・飛脚は3~4日間を費やしたようです。江戸後期に往復に掛る費用は普通に旅して約2~4両(約20~40万円)だったといわれます。また2~3日で摺り切れてしまう草鞋は10~16文でした。

・東海道十三渡し:江戸時代幕府は主要河川の架橋を禁止していました。その理由は、江戸防衛・川が関所の役目・未熟な架橋技術・両岸宿駅の維持と川越人足の生活配慮等諸説がいわれます。江戸から順に「①六郷川船渡し②馬入(相模)川船渡し③酒匂川徒歩渡し④富士川船渡し⑤興津川徒歩渡し⑥安倍川徒歩渡し⑦瀬戸川徒歩渡し⑧大井川徒歩渡し⑨天竜川船渡し⑩今切の海上一里半船渡し⑪宮の海上七里船渡し⑫横田(野洲)川船渡し⑬草津川徒歩渡し」があり、大井川では水深4尺(約120㎝)になると川留めとなり、通常2~7日で年平均50日の川留めがあり、多い時は約千人が足止めされたといわれます。

・関所:1635(寛永12)年以降、徳川幕府が関所設置権を独占し平均50余りの関所が置かれました。その中でも重要な関所は、東海道では箱根と今切(新居)の関所でした。江戸の治安維持の為「入り鉄砲に出女」と厳しい取り締まりが行われました。通過するには、武士の場合は藩の用人、町人の場合は大家や名主や住職が発行する身許を証明する往来手形や関所手形が必要で、女性の場合は更に女手形が必要でした。

・江戸時代の旅の準備:1627(寛永4)年の増補海陸行程細見記には、往来・関所手形(女性は女手形も)、脇差、衣類一式・手拭い(含む三尺・湯)・頭巾・股引・手甲・脚絆・足袋・甲掛・下帯・矢立・鼻紙・道中記・心覚手帳・銀袋・大小財布・巾着・耳掻き・錐・小硯箱・小算盤・秤・風呂敷・薬・薬袋・針糸・髪結い道具・煙草道具・蝋燭・附木・合羽・菅笠・手行李・弁当・綱・さすが(小刀)・携帯枕等の旅用品が書かれています。

 

 

 

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