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2021.04.01

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近江を愛した松尾芭蕉の句碑を尋ねる旅 芭蕉の足跡①

近江を愛した松尾芭蕉の句碑を尋ねる旅 はじめに

 

芭蕉の足跡

 

①1644(寛永21 )年:伊賀国上野赤坂(三重県伊賀市)に生まれ、幼名を金作と云います。

②1662(寛文2)年:藤堂藩伊賀付5千石の侍大将藤堂新七郎良精の嫡男良忠(蟬吟:せんぎん)に仕え、忠右衛門宗房と名乗り、蟬吟と伴に、当代随一の古典学者でもあった貞門派の北村季吟(きぎん:近江野洲郡北村の医者の家の生まれ)に師事し俳諧を習います。藤堂新七郎家は、近江犬上郡藤堂村出身の武将・藤堂高虎の従兄弟・良勝を初代とし、良勝は幼少から高虎に随身し、高虎の関わった数々の戦に従軍し功名を挙げましたが、謙虚な人柄であったらしく高禄を望まず高虎が最も信頼した家臣です。

③1666(寛文6)年:仕えていた藤堂良忠(蟬吟)が25歳で早世し、仕官の望みを絶たれた芭蕉の数年の動向は不明ですが、京に出向き、北村季吟に師事し俳諧と共に古典も習った様子です。

④1672(寛文12)年:伊賀の俳人らの句に宗房の判詞(面白おかしく優劣を批評する)を加えた三十番発句合『貝おほひ』を伊賀上野の天満宮に奉納。これを機に季吟門下生の卜宅(藤堂藩伊勢久居城主藤堂高通に仕えた人)が同行し江戸に下りました。江戸に出た宗房は、日本橋小田原町(現在は日本橋三越本店がある一帯)にある幕府御用達魚屋鯉屋の杉山杉風(さんぷう)のもとに草鞋を脱ぎ、やがて日本橋小田原町にある名主の小沢卜尺(ぼくせき)所有の借家に移りました。日本橋周辺の地は、近江商人や伊勢商人等が活躍する江戸の経済の中心であると同時に、江戸俳諧の中心地でもありました。『貝おほひ』を出板する費用を藤堂良精が、後押しを杉山杉風や小沢卜尺が行い出板することが出来ました。江戸日本橋で芭蕉を迎えた人は、殆んどが藤堂家に繋がりが有り、季吟門下が多くいたようです。

⑤1674(延宝2)年:季吟から俳諧秘伝書『埋木』の伝授を受けます(芭蕉の東下を『埋木』伝授後と云う説もあります)

【芭蕉最初の近江ゆかりの句、近江特産の萌黄色に茜縁の近江蚊帳が登場します】

近江蚊帳 汗やさざ波 夜の床

 

⑥1677~80(延宝5~8)年:江戸関口芭蕉庵(トップ画像:文京区)に入り、江戸小石川の水道工事(神田上水)に4年間関係していました。77年春から78年頃に宗匠立机(そうしょうりっき:句会の宗匠の立場で初めて机の前に坐ること)、立机披露の万句興行を催します。

⑦1680(延宝8)年:杉山杉風の尽力により、江戸深川芭蕉庵(一時、泊船堂とも)に移ります。

⑧1681(延宝9)年:春、江戸蕉門の李下(りか)から芭蕉の株を贈られ、これが庵号・俳号の由来となります。

⑨1682(天和²)年:12月28日の大火(八百屋お七の火事)で江戸深川芭蕉庵も類焼しました。江戸を離れ、甲斐国谷村の蕉門高山麋塒(びじ)を頼り、半年ほど滞在しました。

⑩1683(天和3)年:冬、門人らの寄付金で再建された第二次深川芭蕉庵に入ります。

芭蕉稲荷神社(江東区)

深川芭蕉記念館(江東区)

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