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2021.01.21

  • # 歴史
  • # 井伊直弼
  • # 寄稿

関東だより:「埋木舎」時代の文化人・井伊直弼公

関東圏の滋賀県人会の会員の皆さまより、近況報告、趣味、旅行、日本社会や世界への提言、随想など、バラエティー豊かな投稿記事を募集し、東京県人会のHP「いま滋賀」に掲載します。
今回は、埋木舎当主・駒澤大学名誉教授 大久保 治男様からのご寄稿です。


譜代筆頭・彦根三十五万石の藩主、幕末の大老・井伊直弼は所謂「お世継」ではなかった。十一代藩主・直中の十四男坊として誕生した直弼は五才で母を十七才で父を失ったので藩の「掟」に従い十七才から三十二才迄の十五年間を藩公館「北の屋敷」で三百俵の捨扶持で弟・直恭と生活することとなる。直弼はこの公館を「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と詠んで「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた。

「井伊直弼像」 狩野永岳筆 彦根城博物館蔵

直弼は後世「茶・歌・ポン」というあだながつけられた。即ち、茶の湯、和歌、謡曲(鼓の音)に通じた文化人直弼に対し、愛情と尊敬の念による呼称であろう。これらの基礎には禅の修業と心(清凉寺の参禅で仙英禅師より袈裟血脈を授与された)があったのである。この他、埋木舎時代には国学、書、画、楽焼、湖東焼、華道等は達人の域であり、勿論、武士であるので武術、馬術、柔術、弓術、兵法等文武両道の修練に一日四時間眠るだけで足ると埋木舎で励んだのであった。

布袋画賛 井伊直弼筆

特に茶の湯では昨今井伊直弼は茶道界でも有名である。埋木舎の茶室「澍露軒」において「茶の湯一会集」を記し、「一期一会」「独座観念」「余情残心」「和敬静寂」の極意を大成する。
「眞の茶道は心を修練する術で、貴賤貧福の差別無く、自然体で常時心静め楽しく喫茶する修業」と「入門記」で述べ、「一会集」では「茶の湯の交会は一期一会といひて、たとへ幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我が一世一度の出会也」と述べ「主人は万事に心を配り、深切実意を尽し客を持て成すべし」とする。さらに「余情残心」「独座観念」「和敬静寂」の極意を大成し、茶名は「宗観」とも「無根水(むねみ)」とも号した。
武人としての直弼は居合術で「新心新流」を創設し「勝を保つために滅多に刀は抜いてはならぬ」といって「保剣」とした。

「茶の湯一会集」

 三十二才で兄・直亮の養子となり、藩主、大老となって開国や国際協調の立派な政治を行う基礎は正に埋木舎時代の人格形成があったからである。
藩主となってすぐ十五万両も領民に頒け与え、領内総てを巡視して領民の悩みを聴き良い方向に即決し、能力ある人材登用も行ったという名君であった。

嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ使節ペリー提督が軍艦四隻を率いて浦賀に来航、鎖国日本の開国と貿易修交を迫り国内騒然となるも、直弼は「別段存寄書」で堂々と開国を主張した。「鎖国をやめ、開国し世界と貿易し、各国と平和的に国交する事こそ天下の大道である」と述べ「漂着民には食糧、水、石炭の補給をして帰還させることは人道上当然である」と国際協調を論じ、安政五年(一八五八)大老就任後には開国しアジアで唯一我が国は欧米の植民地にならず国難を救ったのである。
また、「公用方秘録」には「・・・兵端を開き幸に一時勝を得ても海外皆敵とすれば勝てない。敗れば地を取られ国辱大である」とも述べている。

この様な立派な決断に対し、反幕府、倒幕を目論んているテロリスト・水戸や薩長の下級武士達によって直弼は万延元年(一八六〇)三月桜田門外で暗殺され、それ以降、幕府は衰退し薩長を中心とする明治政府が作られるのである。

直弼は桜田門外の変の二か月前「あふみの海磯うつ波のいく度か御世にこころをくだきぬるかな」と嘆き、また一日前に「春浅み野中清水氷(つらら)いて底の心を汲む人ぞなき」と自分の善政を理解しないテロリスト達に落胆して命を落としたのである。

横浜市 掃部山公園の井伊直弼公像(Wikipediaより)

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