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2019.07.25

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忍びの里 甲賀 日本遺産の文化財群 神君伊賀越え関連遺跡

忍びの里 甲賀 日本遺産の文化財群 はじめに

神君伊賀越えの際に、徳川家康一行が宿泊したと伝えられる多羅尾氏の居城(県指定史跡:小川城跡)。江戸時代を通じて代官を勤めていた多羅尾氏の役所跡で、石垣や庭園跡が残ります。多羅尾家は家康の神君伊賀越えの際に、家康を護衛した功績により、その後、幕末まで代官に取り立てられました。(市指定史跡:多羅尾代官陣屋跡)。

1582(天正10)年6月2日、織田信長が明智光秀に襲われた「本能寺の変」、家康は変の起こる数日前から、信長の招待を受け畿内各地を見物中で、泉州の堺で事件を知りました。この時の家康の御供は、本多忠勝・服部半蔵・穴山梅雪等30人余りでした。その為、家康の一行は、滞在先の堺から宇治田原→甲賀→伊賀→伊勢の海から船で本国三河に帰る最短路を選びました。武田氏の親類衆で、信長に降伏していた穴山梅雪は、家康一行とは別行動をとった為に土民に殺害されます。家康一行も途中に地侍や土民に襲われたこともありました。江戸幕府が編纂した徳川家康の公伝『東照宮御賓紀』に「これを伊賀越とて御生涯御艱難(かんなん)の第一とす」と記され、「神君伊賀越え」として有名です。

多羅尾全図

宇治田原からは裏白峠を経て甲賀に入り、多羅尾光俊の居城である小川城で休息を取って御斉峠を越えて伊賀へ抜けたとされています。ちなみに宇治田原城(山口城)城主の山口家には多羅尾光俊の子が養子に入り家督を継いでいます。1638(寛永15)年、多羅尾家第16代光好が近畿地方の天領を治める代官に任命され1500石を領し、多羅尾代官所が設けられ、以来226年にわたって多羅尾氏が代官を世襲しました。

・県指定史跡:

【小川城跡】県道138号線に面した低い丘陵地に石垣で囲まれた曲輪や礎石の建物跡が残ります。(所在地:甲賀市信楽町小川小字和田)

小川城跡

・市指定史跡:

【多羅尾代官陣屋跡】切石を用いて精緻に積み上げられた石垣や庭園跡が残されています。(所在地:甲賀市信楽町多羅尾小字古殿・前谷)
(トップの写真は多羅尾代官陣屋跡の石垣です)

 

 

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