一般社団法人東京滋賀県人会

湖東

近江八景の旅 近江八景の由来

公開日 : 2019.1.10
近江八景の旅 近江八景の由来

八景は、三景(日本三景や三名山や三大名瀑等)や百景等の広範囲な名所や風景のナンバーリングの一つです。このような名所や風景のナンバーリングは、百人一首の歌が選定された時代1215年に順徳天皇編纂の歌集「建保名所百首」に始まったと言われます。「建保名所百首」は、順徳天皇や藤原定家等12人の歌人が、畿内(近畿地方)の名所を多く含んだ全国の歌枕の地100箇所を選定し詠んだ和歌1200首が収められたもので当時の日本百景でした。その後、13世紀から14世紀にかけて中国の瀟湘八景や西湖十景等が入り、旅の隆盛と共に普及し、江戸後期に漢詩文や浮世絵等で大衆化したと言われます。

近江八景の場所

近江八景の場所

近江八景は、誰がいつ選定したかについて従来から諸説あります。2012年9月24日の京都新聞の記事によると「寛永の三筆」の公卿近衛信尹(1565~1614年)が琵琶湖畔の膳所城からの眺望を和歌で詠み選んだ事が分る史料を京大の研究者が見つけたとあります。(これ迄は、室町時代に関白近衛政家が選んだと辞典に紹介されています。)近江八景の選定が確証出来るのは江戸時代初期の事で、かつて大津市の円満院に伝来していた当時著名な文化人の公卿:近衛信尹筆の自画賛で近江八景を水墨画で描き、それぞれに次のような歌が添えられています。

石山秋月: 石山や 鳰の海てる月かげは 明石も須磨も ほかならぬ哉

勢田夕照: 露時雨 もる山遠く過ぎつつ 夕日のわたる 勢田の長橋

粟津晴嵐: 雲はらふ 嵐につれて 百船も千船も 浪の粟津に寄する

矢橋帰帆: 真帆ひきて 八(矢)橋に帰える船は 打出の浜を あとの追風

三井晩鐘: 思うその あかつきちぎるはじめぞと まず聞く三井の 入あいの声

唐崎夜雨: 夜の雨に 音をゆづりて夕風を よそにそだてる 唐崎の松

堅田落雁: 峰あまた 越えて越路にまづ近き 堅田になびき 落る雁かね

比良暮雪: 雪晴るる 比良の高嶺の夕暮れは 花の盛りに すぐる春かな

   

(左から石山秋月、瀬田夕照、粟津晴嵐、矢橋帰帆)

和歌・書・絵画にも精通していた近衛信尹は、近江の数ある優れた名勝の中から、既に日本に入っていた瀟湘八景(平沙落雁・遠浦帰帆・山市晴嵐・江天暮雪・洞庭秋月・瀟湘夜雨・煙寺晩鐘・漁村夕照)の情景を取合わせ、琵琶湖畔の膳所城からの眺望を和歌で詠み選定し、城主(第二代藩主の戸田氏鉄)に賜れたとの説が有力となりました。

   

(左から三井晩鐘、唐崎夜雨、堅田落雁、比良暮雪)

近江八景は、名勝の場所を石山寺・瀬田の唐橋・粟津ケ原・矢橋・三井寺・唐崎神社・浮御堂・比良山系と特定したところが特徴です。選定されて以降、近江の風光をこよなく愛し何度も訪ね・居も構えた松尾芭蕉をはじめ、多くの人々に親しまれてきました。また、江戸時代中期以降は、日本の代表的な名所の典型と意識されていました。木版を含む当時の印刷物と、発行された浮世絵版画、道中記、名所記、名所図会等の大きな影響がありました。近江八景の知名度をより高めた浮世絵は、文や挿絵よりも具体的で彩色も華麗だった為、近江八景が浮世絵版画の格好の画題として描かれました。歌川(安藤)広重、葛飾北斎、鳥居清信等の多くの浮世絵師が版画を手がけ、特に、歌川(安藤)広重(1797~1858年)が1834年頃に作成した横大判錦絵近江八景(保永堂版)は有名で、広重はこれにより浮世絵風景画家として名声を上げたと言われ、20種の様々な「近江八景」を世に出し認知度も一気に高めたと言われています。近江八景が、江戸時代末迄に全国112ケ所の八景が誕生した中で日本において金沢八景・木曽八景等と並んで、日本の八景の風景鑑賞の基礎を築き、琵琶湖の優れた風景や多くの重要道が通い京に隣接していたことは、多くの人々に知られる機会に恵まれていた為、16世紀後半に選定された近江八景は、今も多くの人達に愛され続けています。

(文中の浮世絵は国立国会図書館デジタル化資料を使用しています)

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