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2018.06.14

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第6回 AKINDO塾 レポート

 

東京滋賀県人会では、会員同士の人脈形成、ネットワークの構築、知識の向上を支援する目的で、2016年秋以降『AKINDO塾』を定期的に開催しています。この5月10日(木)に第6回『AKINDO塾』を開催いたしました。今回の講師は、竹村 公太郎 氏【元国土交通省河川局長】で、現在日本水フォーラム代表理事をなさっています。

 

「地形で解く日本史の謎-情報発信の滋賀-」をテーマに講義していただきました。今までの日本史の定説とされる見方を覆すような斬新な解釈を示され、40名近くの参加者の多くが大変興味深いお話であった、との感想を語られていました。

 

講演要旨は以下の通りです。

 

関東育ちなので、大阪に行って、石山本願寺が上町台地にあったことを初めて知った。地形を見ると歴史が分かることを知った。奈良時代のエネルギーと材料は樹木。年間100万本の立ち木が必要だった。このため、奈良盆地の山は禿げ山になっていった。

 

そうなると、山に保水力がなくなり洪水が多発した。奈良の川は真っ直ぐ。これは、山からの土石流を利用した証拠。洪水の後は、土石流を利用し埋め立てて区画整理が行われた。人々は、土地をシェアーしながら豊かになっていった。「和を以て貴しと為す」という聖徳太子の17条の憲法の第1条が生まれた。日本の木材伐採の記録については、ダットマンという学者の研究を見るとよく分かる。

 

水の確保は都市にとって不可欠。長岡京への移転も巨椋池という巨大な湖があったから。京都にはすべての道が繋がっている。道が繋がっていることは、情報が集まること。京都と滋賀の境に逢坂がある。自分は、草津の立命館大学で教えていたため、逢坂のトンネルをよく通ったが、何か寒気を感じた。この逢坂山こそ、日本の東と西の境目。織田信長が天下を統一しようとしたとき、目障りになったのは比叡山の僧侶軍団。

 

この山の戦略的位置を信長は意識し、そこを確保したいということで攻め入った。世間に言われるように、僧侶が世俗化していたため攻め入ったわけではない。こうしたことを著書に書いたところ、比叡山のお坊さんから会いたいと申し入れがあり、恐る恐るお会いしたところ、400年の汚名を晴らしていただき感謝しますと言われた。

 

安土城も、なぜあの場所に決めたのかは地形が解く。古文献を見ると、安土城の周りはほとんど水で囲まれていて、自然による防御が完璧であった。

 

江戸の武蔵野台地は河川がない不毛の地。そこを家康は拠点としたのは、目に染み入る森林が展開していたからだ。

 

日本は、北から南まで、船による縦横無尽なネットワークが確立していた。大分の日田の材木商の人形を見ても、如何に豊かな文化が地方にまで行き渡っていたかがよく分かる。欧米は情報を中心から周辺部に発散していく文化であったが、これに対し、日本は全体的に情報を共有していく文化であった。赤穂浪士の討ち入りも、10日で全国に伝わった。

 

大津の走り井餅のホームページを見ると、逢坂山に車石があり、当時の最新の技術が使われていたことが分かる。京都は、琵琶湖疏水からの発電によって日本に最初の市電が走った街。

 

情報こそ、文化の発展の基本。滋賀は、日本の交流軸の中心にずっと位置していた。特に、新幹線と名神高速道路のおかげで工場立地が急増し、これまで25位だった一人当たり製造業粗付加価値額が第1位になった。今後も大きく発展していくことを期待したい。

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