(一社)東京滋賀県人会 いま滋賀.jp

滋賀全域

  • facebook
  • LINE
  • YouTube

投稿コーナー:井伊直弼公の「優しい心」――人々に寄り添う―― 後編

公開日 : 2022.2.3
投稿コーナー:井伊直弼公の「優しい心」――人々に寄り添う―― 後編

関東圏の滋賀県人会の会員の皆さまをはじめ、広く滋賀に所縁のある方々より近況報告、趣味、旅行、日本社会や世界への提言、随想など、バラエティー豊かな投稿記事を募集し、「投稿コーナー」として東京県人会のHP「いま滋賀」に掲載します。
今回は、昨年11月25日に引き続き、埋木舎当主・駒澤大学名誉教授 大久保 治男様からのご寄稿です。(前後編の後編になります。前編は1月27日公開)


井伊直弼公の「優しい心」──人々に寄り添う──

埋木舎当主・駒澤大学名誉教授
大久保 治男

大久保 治男氏

 

(四)

弘化3年(1846)1月藩主直(なお)亮(あき)の後継者・直元の38歳の若さでの死去に伴い、その代わりの嗣子としては直弼の順番となり、15年間住みなれた埋木舎を出て江戸へ行く。直亮は直弼を養子として幕府の許可がおり将軍にも初(はつ)御目(おめ)見(みえ)、従(じゅ)四位(しい)下侍従(げじじゅう)に任じられ、文化人直弼は公人となった早々、嘉永3年(1850)9月末に兄・直亮も逝去。十一月には彦根藩遺領を継ぎ掃部頭(かもんのかみ)と称することとなる。譜代筆頭 彦根藩・三十五万石の領主となったのである。埋木舎時代には夢にも思わなかった人生の大転換であった。

しかし、直弼のやさしい心は変わらなかった。直弼が引き継いだ遺産の中より約15万両(約200億円)を家臣や寺院の他に領民達へも分配した。農民は農具の修繕や工・商も家業に役立てるように使いなさいと頼んでいる。このような領主は他にいるであろうか。埋木舎時代の貧乏生活があったればこそ領民の生活も肌で感じていて寄り添い、援助するやさしい政治への第一歩がなされたのであろう。

直弼は遺産分配の他役人へも優秀な者の人材登用を宣言し、裁判を公平に行うようにと命じ、歴代藩主が行わなかった領地をくまなく巡見し、領民に接し直接にコミュニケーションを行おうとした。直弼の為政者(いせいしゃ)としては当時ではまさに画期的な仁恵(じんけい)思想であった。直弼の仁恵思想に基づく領内巡見は、寒暑をいとわず前後九回に及び、領民の窮乏に対しては解決できるように善処している。

嘉永6年(1853)3月、直弼は日光廟を参拝した帰途に下野(しもつけ)国(今の栃木県)佐野領(彦根藩の飛地)を巡見した。その折、地元で長年営利を独占していた悪徳商人を即刻処断し、遊女の街も解消させ、女性達の再興を援助した。直弼はこれらの時の心情も和歌にしている。

 

○此のほどの旅のつかれも忘れけり 民すくはんと思ふばかりに

○恵まずであるべきものか道のべに いでたつ民のしたふまことを

○民草のにきほふ見れは 秋ことに栄へもしるき八束穂の国

○のとかなるけふなほ心やすからず 民安かれとおもふあまりに

○治まれる世は海原もみちありて 船の行かひゆたかにそ見ゆ

 

直弼が十二代直亮の嗣子となった弘化3年(1846)にはアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航、通商を求めた。翌年2月、彦根藩他は相模、安房(あわ)、上総(かずさ)の沿岸警備を命ぜられた。

この時、筆者の曾祖父・大久保小膳(直弼の側役)に現地の視察を命ぜられ、兵士達を心配し十分見舞いし、士気の高揚も頼んでおられる。

遠い地での兵士達の勤務を心配しやさしく寄り添っている直弼の心がよく判る。

「開国始末 直弼 佐野領にて民生を聴く」

 

(五)

武道について述べれば、直弼は幼少の頃より藩士を相手に、兵学・剣道・槍術・弓術・馬術・居合術等広範囲に渡って修業していた。しかも、それぞれにおいて実力は相当のもので、所謂「殿様けいこ」ではなく実力も達人の域であったといわれている。

特に、「居合術」は自らも「新心新流」という一派を創設するに至るのである。

「新心新流」は修練を三段に分けて次第に蘊奥(うんおう)の域に達していく。「奥の三秘伝」についてのみ述べれば、「三秘伝」とは保剣・破剣・神剣である。その中で注目すべきは、「保剣」であり、それは勝を保つ意味で、滅多に刀は抜いてはいけない。即ち、永久の勝利者の地位を保つことこそ眞の勝利である。その場の怒りで一人の敵を討って家名を滅ぼすより、忍耐し動ぜずして子々孫々まで勝利者の地位に置くことである、と述べている。

「眞の勝者」とは、ただ人を討つのではなく、堪忍堅固に動かず、剣を抜かずに相手を沈黙し従わせることこそ眞の防禦であると述べている。やたらと剣を抜き、振りかざしおどし殺戮

するのは、眞の武士とはいえない。威厳をもって威圧し、血を見ずに自ら防禦することこそ眞の武士道であろう。剣は強く心は根底に生命を大切にする「やさしさ」があるのである。

 

(六)

嘉永6年(1853)6月、アメリカ使節ペリー提督が軍艦(黒船)四隻を率いて浦賀に来航、日本の開国・修好を迫り、国内騒然となる。しかし、直弼は「別段存(べつだんぞんじ)寄書(よりがき)」を幕府に答申、堂々と開国を主張する。

「鎖国はやめ、開港、開国し、世界と貿易し、各国と平和的に国交する事こそ天下の大道である。ペリーの要求は漂着民を撫育(ぶいく)し送還させる。食糧・水・石炭を補給の為買い上げたい等、人道上当然の事をいっている。まず国際協調する事が大切である」と述べ、安政5年(1858)4月、大老就任後は立派な政治決断をして開国し、我が国が戦争状態になることを回避し、アジアで唯一欧米の植民地になることから救ったのである。

井伊家の「公用方秘録」には「……兵端を開き幸いに一時勝ち得(え)候共(そうろうども)、海外皆敵と為す時は全勝孰(いず)れに在るや予め量るべからず、苟(いやしく)も敗(まけ)を取り地を割(さ)き償わざるを得ざる場合に至らば、国辱焉(これ)より大なるはなし、今は拒絶して永く国体を辱めざると孰れか重きか……」と記されており、正に新心新流の「保剣」によって外国との戦争を回避している。直弼こそ我が国の独立を守った眞の勝者、武道の眞髄を会得していた「サムライ」であったのである。国際協調、平和思想で多くの人の生命を救い戦争の悲劇より日本人を守った「心やさしい偉人」であったといえよう。

因みに、直弼大老の開国について天皇の勅許無く開国したという説があるがこれは大きなまちがいである。徳川幕府は、政治は勿論、外交(鎖国や開国含む)・経済・人民統治等総てが専権で行えるのであり、天皇は「禁中(きんちゅう)並(ならびに)公家(くげ)諸法度(しょはっと)」によりこれらには許認可はなさらない制度になっており、正に学問第一の我が国の統一の象徴的高貴なお方であり、権威はあられるが政治的(外交も)権力は持たれないお方であられる。しかし、開国という大きなことには御意向を仰せのこともあろう。

直弼の開国の決断については、開国した年の十二月には孝明天皇より「条約調印は了解した」旨の「沙汰書」が下されており、また同月二十六日には将軍・家茂よりも、直弼の国難を救ったことへの功績を讃えられ「鞍と小刀」が送られているのである。

しかし、水戸学派・所謂「尊王攘夷運動家」達は倒幕・排外的政治運動を行っており、日本は神国で外国は夷狄(いてき)とさげすみ開国は“けがれ”である、外国人は殺せ、追い払えと叫ぶ。直弼の国際協調と平和思想による「開国」の立派な正しい政治決断はテロリスト達には通じず、万延元年(1860)3月3日、桜田門外の春雪を血で染め直弼大老は首を取られた。

 

直弼は和歌の名人である。桜田門外の変の二ヶ月前には、

 

○あふみの海磯うつ波のいく度か 御世に心をくだきぬるかな

 

必死で国や人民の平穏を願い、政治決断をしているのに何故判らぬ人がいるのかと詠む。そして、桜田門外の変の一日前には

 

○春浅み野中の清水、氷(つらら)ゐて 底の心を汲む人ぞなき

 

と詠んで理解されない直弼の孤独感がよく表されている和歌を最後にあの世へ旅立ったのである。

 

イギリスの詩人・マーチンは井伊直弼を評して次の詩を書いたといわれている。

 

”The Little people see the Biwako

The Big people see Japan

The Great people  see the World“

 

人々の幸せを願い「やさしい心」を持っていた直弼は、最後まで平穏や協調の価値観を持った文化人・政治家として花と散ったのであり、正に眞の偉人“The Great people”であったのである。

《NHK大河ドラマ第一号(昭和38年)「花の生涯」は、前半は「埋木舎」主舞台の直弼像

後半は直弼の政治━文化人・平穏・協調━を評価している(武蔵野学院大学名誉学長)》

 

 

記事一覧へ戻る