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関東だより:直弼公と「武道」――平穏なる守り――

公開日 : 2021.11.25
関東だより:直弼公と「武道」――平穏なる守り――

関東圏の滋賀県人会の会員の皆さまより、近況報告、趣味、旅行、日本社会や世界への提言、随想など、バラエティー豊かな投稿記事を募集し、東京県人会のHP「いま滋賀」に掲載します。
今回は、7月29日に引き続き、埋木舎当主・駒澤大学名誉教授 大久保 治男様からのご寄稿です。


直弼公と「武道」──平穏なる守り──

埋木舎当主・駒澤大学名誉教授
大久保 治男

大久保 治男氏

 

埋木舎時代の井伊直弼公は前回でも書きました様に茶の湯、和歌、謡曲は達人の域の文化人でありその基盤には禅の修業がありました。

勿論、武家である直弼は「武」にも優れた文武両道の達人でありました。即ち、兵学、剣術、居合術、馬術、柔術、槍術、弓術等埋木舎では一日二時(とき:四時間)眠るだけで足ると文武両道の修練に励んでいました。

彦根藩の二隊に分かれての騎馬隊の戦闘訓練(大久保家所蔵屏風)

居合術は指南役・川西精八郎充信(みつのぶ)に付て技を練り、極意を得て自らも「新心新流」という一派を創設します。それは三段階に分け次第に蘊奥(うんのう)の域に達していきます。初の七段は業を学び、勇を養成する根本の鍛え、次の段は基礎的な業を応用し、実践的活法に入る、奥の「三秘伝」は身心一如、天下無敵の境地に至るとします。「三秘伝」とは「保剣」「破剣」「神剣」であり、「保剣」こそ最も直弼の中心的考えでありました。即ち「勝を保つことが大切で、刀は滅多に抜いてはいけない。永久に勝利者の地位を保つことが真の勝利である。忍耐第一でその場の怒りで敵を討ちもし負ければ家名を亡ぼす。子々孫々まで勝利者の地位を守れ」という「平穏維持の為の威嚇力的武力こそ大切である」という今日にも通ずるすばらしい考え方でありましょう。また「勝をたもつを真之勝と云。人を討のみは勝とは云わない。堪忍堅固にして動かざる時は子々孫々に家名繫栄し武名も穢さず、至極の勝といえる」何と高邁(こうまい)な武士道でありましょう。

また、山鹿流の兵学の師に送った「意見書」でも「武は決して血を喜ぶものに非ず、血を見ずして事の治まるを見る。聊(いささか)も武の要(かなめ)たり。又、世を済(すく)ふの要たらずんばあらざるなり」とも崇高な考えを述べています。

直弼は三十二歳の弘化三年(一八四六)二月に十五年間文武両道の修業をした埋木舎を離れます。兄十二代藩主・直亮の養子となり江戸城「溜間詰」として勤めることとなったためです。そして四年後・嘉永三年九月には養父死去にともない直弼は第十三代彦根藩主となり各種善政を行いました。

三年後の嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ使節ペリー提督が軍艦(黒船)四隻を率いて浦賀に来航、日本の開国・修交を迫り国内騒然となります。しかし直弼は「別段存寄書」を幕府に答申、堂々と開国を主張するのです。
「鎖国はやめ、開港、開国し、世界と貿易し、各国と平和に国交する事こそ天下の大道である。また、漂着民の送還や食糧、水、石炭の補給の為の買い上げ等ペリーの要求は人道上当然である」として安政五年(一八五八)四月大老就任後に鎖国をやめ「開国」し国際協調するという立派な決断をされ、我が国はアジアで唯一欧米の植民地になることはなかったのです。

井伊家文書「公用方秘録」には「……兵端を開き幸に一時勝を得候共、海外皆敵と為す時は全勝孰(いず)れに在るや予め量るべからず、苟(いやしく)も敗を取、地を割き償はざるを得ざる場合に至らば国辱焉(これ)より大なるはなし……」と記されており、正に新心新流の「保剣」によって外国との戦争を回避し国難を救い国の独立を守った直弼公こそ真の勝者、武道の神髄を会得した「サムライ」であったといえましょう。

大久保家初代新右衛門忠正、馬上の武者絵。
忠正は小田原城主の父・忠世や彦左衛門忠教とはいとこにあたる。
大久保家(藤原道兼後裔)は徳川家康公祖父の松平清康公よりの旗本。
家康公の命にて彦根藩創設に目付として派遣され、井伊家初代藩主・井伊直政公を迎える。

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