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近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ 水口宿

公開日 : 2021.9.9
近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ 水口宿

近江歴史回廊の旅 東海道~土山宿から大津宿を訪ねて~ はじめに

住所:滋賀県甲賀市水口町

交通:近江鉄道水口石橋駅(次宿迄の里程:3里半)

町並東西約23町・人口2692人(宿駅大概帳による)

宿場の規模(軒):家数692・本陣1・脇本陣1・旅籠41・問屋場1

 

水口宿は、町名の起源が水口神社の祭神「大水口宿禰宜命」が地名となったと云われ、歴史が古く宿場として成立したのは室町時代で、伊勢参宮の宿村として設けられたのが始まりと云われています。1585(天正13)年豊臣秀吉は家臣の中村一氏に命じて大岡山(古城山)に水口岡山城を築かせ、宿場としての町割等も整備、その折に江戸側の出入口から三筋の道に分かれる珍しい構造になりました。その後、関ヶ原の合戦に敗れ落城、徳川家康が水口を直轄領としました。1605(慶長10)年に野洲川に沿った東海道が山手に付け替えられ東部諸町が整備されました。1634(寛永11 )年3代将軍家光の上洛に伴い新たに茶屋が築かれ、此れが現在遺構の残る水口城です。

水口藩3代目藩主加藤嘉矩が下野国壬生藩から転封になった時に持参した干瓢がこの地の名物干瓢になったと云われ、東海道でも珍しい「三筋の通り」がある江戸から数えて50番目の宿は、今も九十九折が残る街道には土蔵造りの家が並び、城下町と宿場町の雰囲気を留めています。

水口宿:土蔵造りの家が並ぶ街道

 水口宿と云えば一年中いつでも泥鰌汁を出すことで知られ、太閤張と宣伝され旅人の土産となった煙管や、茶人に愛好された葛籠細工や、干瓢や矢尻等が名物でした。広重の浮世絵は、明るい田園風景の近江路を「名物干瓢」と題して描いています。この地の名産の干瓢造りをする女達の作業姿を面白く描いています。手前には夕顔を切る大きなまな板があり、干瓢をぐるぐると細く剝ぎ乾かしています。背中に赤ん坊を背負った女性も手伝っています。また、街道には、もろ肌を脱いだ飛脚が行く姿があり初夏の暑さを示しています。

 

【見所】

・東見附跡:見附は元々見張りの番兵を置いた軍事施設で土台を石で固め土を盛り矢来を置いたとされています。水口宿の東端に東見附が設けられ「江戸口」と呼ばれ再現されています。西端には西見附があり「京口」と呼ばれました。江戸後期には道路の拡張等で撤去されていったようです。

東見附跡

・水口宿本陣跡:1624~44年(寛永年間)東伝馬町に伝馬問屋も兼ねた鵜飼伝左衛門本陣があり、また、西伝馬町にも儀峨彦之丞と堤文左衛門の2軒の本陣がありました。

1684~88年(貞享年間)頃には衰退してしまい本陣は鵜飼本陣1軒となったようです。現在の本陣跡には、竹囲いされた路地の奥に説明版と石碑があります。

・水口城址:築城当時は水口御茶屋と云われ将軍の宿泊所でした。1634(寛永11)年の築城は、二条城の作事と並行し作事奉行として小堀遠州本人が監督したと云われます。涸れることのない堀に囲まれた城は別名碧水城とも呼ばれ、天守が置かれない本丸と二の丸からなり、京都の二条城と同じ構造です。本丸御殿は家光の時に一度だけ使用され、1711~16年(正徳年間)には維持管理の問題から撤去されたと云われます。

現在は、本丸の一部が蓮華寺の書院に移築され、本丸部分は水口高校グランドに利用。城址は堀と石垣が残り、水口城の隅櫓を復元した二層櫓が造られて内部は水口城資料館になっています。

水口城址(復元された隅櫓)

・城下町と宿場町を歩く:

「水口曳山祭」江戸時代中期の享保年間より続く水口神社の祭で4月19日宵宮祭20日例大祭で16基の曳山巡行や水口囃子等様々な演出があり沢山の観光客が集まり町民の力と心意気が感じられる祭です。近年は巡行される曳山が少なくなったと嘆かれていました。

「高札場」東見附跡の右奥にあった水口岡山城址の古城山を眺めながら国道を渡り、宿内に入り脇本陣跡・本陣跡を進むと、幕府や領主が決めた法度や掟書等を木の板札に書き、人目が引くように高く掲げておく高札場が復元されています。

三筋の道入口の高札場

「三筋の道」高札場を過ぎ街道は左右2本に分かれ、更に3本に分かれます。真ん中の道が東海道で1㎞進むと、また3本の道は一諸になります。ここが三筋の辻で「からくり時計」があります。三筋の道の途中の本水口地区にも一つあり、水口祭の曳山をモチーフに平成21年に道中のシンボルとして造られました。

からくり時計(本水口)

三筋の辻から進み水口石橋を過ぎ近江鉄道の踏切を渡り、水口城天王口跡から大きく右に折れ、水口の町の中心部を進み広い交差点を左に曲がると水口城址への道があります。

・大常夜燈と横田渡跡:復元された泉一里塚跡を過ぎた野洲川の此の辺りは横田川と呼ばれていました。「常は土橋・水嵩増せば舟渡し」と言われた横田の渡しです。渇水期の10~2月には土橋(橋面を丸太で作り上を土で均した簡素な橋)が架けられ、夏場は舟渡しとなり東海道十三渡しの一つと云われました。往時は夜も通行が絶えず、対岸の渡し場の目印として、1822(文政5)年に、日本一の規模と言われる高さ10.5mの常夜燈が万人講により建立されました。

横田の大常夜燈

野洲川の横田渡し跡

・天保義民之碑:幕府は天保の改革の一環としてこの地の検地を開始し年貢増を図りました。しかし、1842(天保13)年にその検地の不公正に抗議して甲賀郡と野洲栗太両郡の農民約4万人が集まり一揆を起こしました。これが歴史に残る「天保の一揆」です。捕まえられた農民百数十人は全員獄死しましたが検地中止書を書かせることには成功しました。この碑は明治31 年湖南市三雲の伝芳山に建てられたものです。

・その他:

「水口干瓢」代々受け継がれてきた種子で現在13 軒の農家が約11㌶で作付されています。伝統の香と歴史を紡いだ糸のように白い水口干瓢です。

「弘法杉」大沙川の堤上に聳える樹齢750年の弘法大師ゆかりの大杉です。

「うつくし松」美松山南東斜面の平松に自生する傘型の珍しい松で国の天然記念物です。

世界に賞賛された「水口細工」の復活を期待しています。

「美味しいお酒」美冨久・御代栄・貴生娘・神開・笑四季・酔小町等があります。

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