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近江歴史回廊の旅 中山道~柏原宿から草津宿を訪ねて~ 守山宿

公開日 : 2021.8.12
近江歴史回廊の旅 中山道~柏原宿から草津宿を訪ねて~ 守山宿

近江歴史回廊の旅 中山道~柏原宿から草津宿を訪ねて~ はじめに

住所:守山市吉身・今宿

交通:JR東海道本線琵琶湖線守山駅(次宿迄の里程:1里18町)

宿高2019石・町並11町53間・人口1700人(宿村大概帳による。東側吉身村と南側今宿村の加宿を含む)

宿場の規模(軒):家数415・本陣2・脇本陣1・旅籠30

 

守山宿は、古くは古今集に「もる山」が見られ、桓武天皇が東門院行幸のおり、「わが山を守り給う寺」という意味から東門院守山寺と名付けられそれが地名になったと言われています。東下りの場合京発ち守山泊となり、守山宿は宿場町と共に門前町として多くの旅人で賑わう、江戸日本橋から数えて68番目の宿駅です。野洲川を渡り、民家の町並には沢山の寺院が驚く程あり、狭い通りに風情豊かな街道らしさを感じました。

守山宿:境川(吉川)に沿った宿場

広重の浮世絵は、手前には境川(吉川)、そして咲き誇る桜の花に囲まれた守山宿の風景です。家並の背後に見える山は三上山で、街道には乗掛馬という荷物の上に座布団を敷いて乗る旅人、棒手振りの行商人等が描かれ、旅人は一人を除いて京都へ向かい終着を意識させているようです。実際には吉川は宿並に交差して流れており宿並に沿って流れる川はないので、土橋付近から川に沿って家並が片側だけの脚色で描いたものと伝わっています。実際に渡った土橋は10mに満たない橋でした。6月にはゲンジボタルが飛翔します。

 

【見所】

・守山宿町屋うの家:宇野家は故宇野宗佑元内閣総理大臣の生家で、江戸時代「年寄」の役職を務め「長左衛門」と名乗り宿場の馬や人足を提供し家業としていました。その後荒物屋長左衛門を、明治には造り酒屋を営んでいました。廃業後平成22年守山市が買い取り改修した築140年程の建物は、中山道守山宿の拠点となり、情報発信のポイントと憩いの場になっています。

うの家

・本陣跡:小宮山九右衛門が本陣職を務め、公用武士諸侯家老職等の休泊所として多くの歴史上の人物が宿泊しました。また、謡曲「望月」では甲屋という架空の旅籠に見立てられています。

守山宿本陣跡

・中山道街道文化交流館:数少ない江戸時代より続く街道筋「旧筆忠」の明治初期の町屋を利用した建物で、市民活動や情報発信やイベントの拠点や観光客の交流の場とし、親切な管理人が常駐されています。

中山道街道文化交流館

・東門院:天台宗の寺院で788(延暦7)年「比叡三千坊」の僧坊の一つとして最澄が開き、延暦13年桓武天皇から「比叡山を守る東門」(一説に鬼門封じ)として「比叡山東門院守山寺」の山号印号を賜りました。昭和61年本堂が焼失しましたが、護摩堂の不動明王坐像や境内の石造五重塔等の重要文化財は健在です。境内にはホタルが飛翔し、北川呉服店主が寄進された一刀彫の大きな蛙があります。

東門院

・土橋:1661~73(寛文)年頃に本宿の守山宿と加宿の今宿の境の吉川に架けられた橋で、長さ20間(約36m)幅2間(約3.6m)の勢多唐橋の古材を使って架け替えられた公儀御普請橋です。浮世絵に描かれた昔の吉川はもっと広く、川には屋形船が、両岸には宿屋や茶店が立ち並んでいました。

土橋

・今宿一里塚:街道の両側一里毎に土を盛り榎や松等の樹木を植え旅人の目印としたもので、戦国時代末期には既に存在していましたが江戸時代の五街道整備より制度化されました。この一里塚は江戸から約128里あり、五間四方の塚で榎等が植えられた県下で唯一残る一里塚です。(トップ画像)

 

 

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