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琵琶湖に浮かぶ4つの島々と琵琶湖に架かる2つの橋 沖島

公開日 : 2021.1.7
琵琶湖に浮かぶ4つの島々と琵琶湖に架かる2つの橋 沖島

沖島(おきしま) 住所:近江八幡市沖島町

近江八幡市の北端沖合1.5㎞に浮かぶ面積1.53平方㎞、周囲6.8㎞で琵琶湖最大の島です。「おきのしま」または「奥の島」とも呼ばれていました。日本で唯一の湖沼の有人島で、湖沼の島に住む例は世界的にもデンマークやスコットランドにあるくらいで珍しく、学術的にも注目されています。

沖島と沖島港

沖島は、約6万年前にできたと言われ、島には数千年前の縄文時代の遺跡もあり、狩猟採集の時代から人が住んでいたのではないかと言われています。歴史は古く、天智天皇の寵臣で藤原鎌足の子藤原不比等が、713(和銅6)年頃にこの島に奥津島神社を建立したことが始まりとされ、湖上を行き交う船人から航行安全を守る神の島として崇拝されていました。860(貞観2)年頃には寺院も出来、僧と数人の神社を守る人が住んでいたようです。万葉集にも「淡海の海 奥津島山 奥まけて 我が念ふ妹が 言の繁けく」と詠まれています(1068(治暦4)年の柿本朝臣人麻呂の歌集より)。

別の伝承では、保元平治の乱(1156~1159年)に敗れた清和源氏の落武者7人(小川・北・茶谷・中村・西居・久田・南)が住み着いたのが始まりとされ、今もこの姓の島民が多く、その子孫だとも言われています。また、始祖の一人茶谷重右衛門が建てた西福寺には、室町時代、旅の途中に南風に見舞われて島に避難した蓮如が書いた文字が虎の模様のように濃淡になっていることから「虎斑の名号」と呼ばれる寺宝が残っており見学もできます。

沖島は、北側一面が石英班岩という硬くて石垣に適した石材資源に恵まれ、豊臣秀次の八幡城築城に使われたように古くから石材業が行われてきました。島の石材業は1887(明治20)年頃から東海道線や琵琶湖疏水等大工事が続き急激に発展し、大きな収益を上げました。その後衰退し戦後再開されましたが、近年は全く姿を消してしまいました。

沖島漁港と島内の家並み

人口は、1955(昭和30)年には808人が、2013(平成25)年には125戸で330人が生活しています。生業は、主に漁業の半漁半農村です。織田信長によって住民専用の漁場としての権利を与えられて以来、これを活かし漁業に専念してきました。漁船数は約220隻で、スジエビ、ゴリ、アユ、フナ、モロコ等が主な漁獲魚です。島民の大部分が各家独自の網を作って魚を獲り、自宅の畑で野菜を、漁船に農機具を積んで、対岸の買い入れた田んぼ(中の湖入口付近や大中干拓地、約50ha)で米等を作り、味噌や漬物やおかき等の菓子も手作り、自給自足をしながら、昔と変わらない暮らしを送っています。また、夫婦で漁に出るスタイルが一般的で、網の手入れや魚をさばいたりと、いたる所で夫婦が一緒に仕事をしている姿を見かけます。そんな漁師の奥さん達で構成される「湖島婦貴(ことぶき)の会」では、獲れた魚を自分達で加工し漁港前の屋台で販売しています。

島へのアクセスは堀切港⇔沖島(中島通船:10分)で、島内の交通手段は三輪自転車とマイボートです。対岸の掘切港には島民専用駐車場があり、島内には軽自動車が1台、コンビニはなく自販機6台の島は、今も昔も変わらずゆっくりとした時間が流れています。2013(平成25)年6月に国の離島振興法が約半世紀ぶりに見直され、沖島が「離島」に指定される方針が決まりました。これにより、湖の離島でも法律による支援を受けられるようになります。漁業を生業としてきた沖島は、人口の減少と少子高齢化が急速に進行してきました。今後、定住促進と医療充実、自然環境と開発がどのようになるのか、島民と自然を大切にしたこれからの「沖島ブランド」をどう構築されていくのか、注意深く見守りたく思います。

島内の三輪自転車

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